鹿島美術研究 年報第3号
145/258

な課題であったわけで,今日指摘される日本洋画の弱体という原因もそこにあると考えられる。このことは鹿子木芸術への再検討を促すものである。幸い鹿子木の遺族のもとには千数百点に及ぶ作品や資料が残されており,これらを調査,整理することによって,これまであまり注目されていなかった鹿子木芸術の全容を明らかにし,さらにその周辺の画家の作品をも調査することによって,京都洋画壇へのフランス・アカデミズムの移入と展開の様相を跡づけ,その美術史的意義を再確認しようとするものである。研究報鹿子木家に残された作品,資料を調査研究するに当たっては,これらを安全に保存し,調査を進め得る施設の確保が第一の問題であったか,三重県立美術館の協力により同館収蔵庫の一部を借用することができた。京都の鹿子木家から津への輸送の段階で,当初の数百点という予想をはるかに上まわる千数百点の作品,資料の伝存することが明らかとなり,搬入後,他への影椰がないよう殺虫,殺徽を行った。調査は,まず大まかな分類を行い,これに従って作品,資料を同種のものによって組み替えて配置することから始めた。その後,作品を集中的に調査することとし,真撮影,採寸等を行い,本調査のために印刷した写真資料カードの作成に主力を注ぎ,現在カードは油彩画約350点を作成した。このうち作品としての価値を有するものは,後述「鹿子木孟郎作品第一次調査目録」としてまとめた約260点であり,このほか鹿子木の師ジャン・ポール・ローランスの作品数点も含まれていることが明らかとなった。鹿子木の作品は,最初期の天彩学舎(岡山)時代のものから,不同舎時代,教員時代,三度に亘る滞欧時代,京都時代の晩年のものまで,全時代をカヴァーすることができるものであった。その多くは習作や下絵,末完成作とも思われるが,完成作も少なからずあり,鹿子木芸術の展開をより具体的に示すものと思われる。ただ,それぞれの作品の制作年次等については不明の点も多く,現存の弟子からの聞き取り作業も開始したが,まだ今後の研究に負うべきところが大である。一方,重要度の高い資料類の一部を複写し始め,アメリカにおける友人たちとの水彩画展開催の新聞記事やアカデミー鹿子木の入塾証も発見されて,年譜的裏付け作業も少しずつ進んでいるが,厖大な資料をひとつひとつ読むことは今後かなりの時間を要すると思われる。現段階で報告可能な成果は別紙調査作品リストである。-127-

元のページ  ../index.html#145

このブックを見る