階には未だ至っておらず,今後継続して調査研究を実施してその成果をまとめていきたいと考え,報告書もその時点でより充実した内容のものとして再報告するつもりである。尚,鶴林寺本堂の折衷様式と濃密な関連を示す大阪府河内長野市の観心寺本堂(金壁画四面(両界曼荼羅図と四天王図)の調査も,鶴林寺調査とともに,新知見として得るところが大きな試みであった。賢耀著『観心寺参詣諸堂巡礼記』の記載により鶴林寺本堂に先立つ永和四年(1378)建立の密教本堂建築として夙に高名な作例ではあるか,他の史料や諸条件を考慮すると十五世紀に入って応永ごろの建立とも解される観心寺本堂には,内陣須弥壇前方左右に一面づつの曼荼羅壁があり(参考図c参照),その裏面には四天王像がそれぞれ二謳づつ描き分けられている。四天王像の随所に限らず,曼荼羅図の方にも認められる高い盛上げ彩色技法の多用や,明るい色彩の感覚,像容表現の明快さは絵師の特徴として特筆すべきものでもある。後世,十七世紀末頃の画史類は,例えば『本朝画史』では「長尊」『丹青若木集』や『画工便覧』では「永存」などという画僧を,観心寺塔頭の僧でありこの作例の筆者とて記載しているが,『観心寺文書』(『大日本古文書家わけ六』)の応永頃の文書にしばしば現われる「長聰」という僧侶が注目されよう。伝承や筆様からも漢画系の絵仏師と考えられるが,本研究の課題の一部でもある個人作家とその作画例という観点からも室町初期の例証としてより詳しい研究の必要性が求められ,今後の精査と史料蒐集,その検討に期するものである。-153-
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