りで精I旱な顔付きは,前記唐代の獅子のRに近い。④は神で,狛犬ではないが,そのつくりはやはり③に極めて近い。この奈良風の獅子の伝統は,鎌倉時代に至り,その天平復古の風潮とともに,復活する典型的な例を挙げると,⑤手向山八幡宮狛犬⑥大宝神社狛犬である。⑤は呼形が鎌倉時代を潮るもの。縦長で小づくりの頭部を立て,胸を張って雄大な構えを見せ,前記③④に通ずる気分を持つものである。また東寺鎮守八幡宮に伝えられた狛犬も,この形式を忠実に襲ったものである。ところが⑥は,このような敏捷な獣の姿をより写実的な方向へ展開したもので,細身の体に前肢を引いて,背筋を伸し,たて髪を乱して威嚇する姿は,④興福寺香原磐の獅子などに見られる,唐風の獅子の再来といえる。③④⑤が唐風に基づきながらやや形式化した奈良風を見せていたのに対し,この⑥は唐の様風ヘ一挙に引き戻した感がある。以上のようや流れに対して,10世紀末以後,和様の獅子が模索された。これを仔細に辿ると,唐風獅子の⑤タイプに基づき,それに様々な変容を加えたものであることが判った。まず⑤型の面影を濃厚に遺しながら,和様化に至る一歩手前の様相を示すものに⑦禅定寺文殊菩薩像の乗る獅子が注目される。これは禅定寺文書によれば,僧育然が中国に渡る時,文殊菩薩像を藤原兼家に「渡進」したが,兼家は文殊堂を建立し,この像を安置し,「当庄」(宇治田原か)の庄民を文殊堂の寄人としたという。本像がここでいう文殊像に当るとすれば,育然が入宋する永観元年(983)以前のこととなり,正に和様化への夜明けの時期にふさわしい。像は大振りの頭部に,目と口を大きく開けてユーモラスな表情を示し,たて髪を後方へ流すもので,⑤東寺像の延長上に更に明るい気持ちを加えたものである。その後の和様の完成期の資料がないのは残念であるが,より内向的で静かな感情を押し出したものと想像される。11■12世紀の和様の獅子としては次の例がある。⑧御上神社狛犬⑨厳島神社狛犬(貼札43,44, 45, 48) ⑩常信寺文殊菩薩像の乗る獅子⑧⑨は守護獣としては物足りないほどの静かな感情をあらわすものである。注目すべ-157-
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