民楽派,絵画ではスリコフやヴァズネツォフ,レーピンを中心とする歴史画派の活躍が看られるなかで,イコン絵画においても,ピョートル大帝以来の西欧化で,ビザンチン伝来の図像が失われてしまったことが意識され,自已確認のために,伝統的な図像の回復が意図されたのであった。日本の唯一のイコン画家山下りん(1857■1939)は,19世紀末のロシア・イコンのこの二つの潮流,つまり西欧化のなかで西欧の宗教画をそのまま写してイコンとすることと,伝統的な図像に帰ったイコン,このはざまにあった。それは山下りんが留学していた1881年から83年のペテルブルクの状況を忠実に反映しているのであり,彼女はギュスターヴ・ドレの1866年刊の聖書物語挿絵をそのまま写してイコンとするロシアで最も由緒ある重要なイコン「ヴラディミールの聖母子」のコピーを制作している。たしかに,ヘルメネイアに記されているような図像の指示,さらにはポドリンニクのような図でもって図像を定めた手本がなければ説明のつかない形の一致の例は,既にあげた「変容」のイコンの場合の他にも多〈ある。「マリアの誕生」の絵のなかの待女たちに関して,セルビアの13世紀のグラダツの教会堂,15世紀のカレンチの教会堂,マケドニアの13世紀末のオフリドの聖クレメント教会,14世紀同じオフリドの聖ソフィア教会が全く同じ形を示している。他にもいくつか例は挙げられるが,しかし現存するビザンチン絵画の総体を考えてみると,このような例は実は採るに足りないのである。しかも作品の質も概して低い。「変容」のイコンについても,全く同じ形で人物の位置関係もそのまま踏製されているのは,意図してコピーされた場合,例えばブリョフとその周辺の作品間にしか見られない。人物が同じ形を守っているとはいっても,配置が入れ代わったり,また別のポーズとの組合わせで描かれたりしている。つまり,一見画ー的にみえても仔細に観察すれば,ビザンチン絵画の大部分の作品は実に多様なものであることが分かる。このような多様性を前にして,ヘルメネイアやポドリンニクを重要に考えすぎていたのではないかとの反省がでてきた。1946年のラザレフの論文,1954年のドミトリエフの壁画技法についての基礎的な考察,1963年のアルパトフの論文がそれである。そして1968年ウィンフィールドは「図像の固定性は,画家の長年にわたる修業と,実際の作品に従っての学習による。画家は修業時代に学んだ形を使って,制作現場の壁面の形やパトロンの注文に応じて臨機応変に対応していった。画家が常に手本の人物像_ 173-
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