鹿島美術研究 年報第3号
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べき作業である。絵画というものの身体性ー。われわれがこれから検討しようとするもう一つと文脈である。デュビュッフェらの物質主義とそこに胚胎した行為の概念は,まさしくそれを先取りしたもの,いやむしろ,より典型的にその本質を明らかにしたものとして,“改めて客観的に”評価されるべきなのである。たしかにタピエは,フォートリエとデュビュッフェという二人のマチェールの画家との出会いから出発した批評家ではある。1944年のルネ・ドルーアン画廊の「人質」先のアンソロジーに収録された最初期のテキストである「ミロボリュス・マカダム商会ーデュビュッフェの厚塗り」<4l(Mirobolus Macadam et Cie-Hautes Pates de J. ルの意味するもの」第1回展から後は,タピエの組織する展覧会に一切参加しなくなるにもかかわらず)タピエは,中心となる著書である「別の芸術」(5)をも含めて「人質」と「厚塗り」に繰り返し言及し,そのマチェールの「非人間性」を(おそらく物質的な,といってもさしつかえない)「現実」(Reel)という言葉でとらえてはいる。しかし,それはただちに伝統的な美学の否定へ,そして「別のもの」「魔術的なもの」への結びつけられ,マチェールの自立の問題として論じられることはない。「別の芸術」での彼の立場は,ニーチェの混沌とダダの否定の精神の称揚であり,それと裏腹のロマン主義,シュルレアリスムの文学性,抽象絵画のアカデミズムヘの嘲笑である。線型の歴史解釈を退け,独断的な再解釈によって現在性を与え,時系列を越えた評価が展開されるが,そのポレミックな主張の全体を支配するのは,最終的には一種の神秘主義であると言わざるをえない。モダニズムにかわる空間論として,位相数学などの非ユークリッド幾何学が持出されるのも,かえって貴族的な趣味性を感じさせるものである。ジョルジュ・マチウは,タピエの精神を「論理,神秘主義,ダダという三つの矛盾する性質が一体化」(6)した稀有な例であると冷静に指摘しているが,実際,彼の論理は強固な一貫性を保ちながらも,同時に深く謎めいており,「別の芸術」への契機を,良くも悪くも超越論的なものにしてしまっている。もちろん,その論旨が創造のための批評としては理解しかたいからといって,タピ工をアンフォルメルのイデオローグの座から引き降ろすわけにはいかない。アンフォ(Otages)展に「ついに何か新しいものを感じ取った」彼呵ま,2年後に同じ画廊から,Dubuffet)を出版している。また50年代に入っても(フォートリエは「アンフォルメ-177-

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