鹿島美術研究 年報第3号
197/258

あらわしているのは,色彩に関するこのような発言である。画家にとってはしたがって,「顔や木を描く時に,それを黒で塗るか青で塗るか,あるいは赤で塗るか,ということよりも,その選んだ色をどのような仕方で塗るかということの方がずっと重要なのだ。」(8)なぜなら,描くとは,“色"を塗ることではなく,色のついた物質を付着させること,言いかえれば画面にマチェールをつくり出すことに他ならないからである。「芸術とは物質から生まれなければならない。精神は物質から言葉を借りなければならない。」(9)という彼のアフォリズムは,自明の理でもなければ,イロニーでもなく,油彩の技法の伝統を排して,まさに物質そのものに語らせようという,ラディカルな実践的意図の表明なのである。これらの引用はデュビュッフェの「あらゆるジャンルの芸術愛好家への趣意書」れた1946年はまた,彼の「厚塗り」による個展,「ミロボリュス・マカダム商会」展が開かれた年でもあった。マカダムとは19世紀初のスコットランドの道路技師の名前で,またマカダム式とは彼の考案した砕石舗装法を言う。実際,この「厚塗り」のシリーズは,砂や小石をまぜたコールスターを塗り込め,白いパテを重ね,そこに引っかき傷のような線で一見粗雑に人物を描いたもので,“道路”のようにも極端化されたマチエールを特徴としていた。当然ながらこのような絵画は構成的なものではありえない。それは計算された結果(マチェールの効果)に向って進められて行くのではなく,むしろその多くを積極的に偶然性にゆだねるものである。「出発点は生命を与えるべき表面ーキャンバスであれ紙であれーと,そこに投じられた絵具やインクの最初のしみである。そこから効果が生じ,そこから冒険が生まれる。このしみこそ,それを豊かにし方向を与えることに応じて,仕事を導びいて行くべきものだ。タブローは家のように,建築家の尺寸から出発して築かれるものではない。それは結果に背を向けてつくられる。_手探りで.I後ずさりして.I」(IO)結果に背を向け後ずさりして達成されるタブロー。自らが生み出したしみ(tache)に逆に導びかれていく画家の手。しかし制作における偶然性のこのようなとらえ方は,にそれが目的的な営為を否定しているというだけではなく,画家の立場を,一種のォートマチスムに近いところに置いているように思われる。そしてまた次のような大胆な絵画=行為の主張がある。(Prospectus aux amateurs de tout genre)によっているが,この著作集が刊行さ-179-

元のページ  ../index.html#197

このブックを見る