鹿島美術研究 年報第3号
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「画家の本質的な行為は塗ることである。それもちっぽけなペンとか毛のふさで色のついた水を引き伸ばすのではなく,一杯に満たされたバケツや洗面器に両の手を潰け,手の平や指で土やパテを,与えられた壁に塗りつけ,取っ組み合ってこねまわし,そこに彼の思考と動脈を打つリズムと鼓動の,ありったけ直接的な跡を刻み込むことなのである。」(11)もちろん,彼がここで主張しているのは,絵画というものの身体性であって,オートマチスムそのものではない。事実,デュビュッフェの画面には筆触の速度感がとぼしく,オートマチスムの直接の産物とは見なしがたいように思われる。しかしこのようにも根源的にとらえられた絵画=行為論は,(シュルレアリスム的な深層心理の投影とは対比的な意味での)身体的オートマチスムと近しい関係にあることは認められてよいだろう。絵画というものの身体性,それは何も「厚塗り」のみが一人把握しえたものはな〈,絵画を原初的に問い直そうとする40年代末の前衛画家たちに,多少なりとも共通する視点であった。アスガー・ヨルンもまた,1949年の「コプラ」誌創刊号で,プルトンの絶対的な心的オートマチスムを批判して,「人は純粋に心的な仕方では表現できない。表現することとは,思考を物質化(materialiser)する身体的な行為なのだ。それ故,心的オートマチスムは身体的なオートマチスムに有機的に結び付けられている」(12)と述べ,マチェールの画家たちとはまた別の角度から,表現における身体性の意味を「弁証法」的に提示している。この「物質化」は何もデュビュッフェのように,画面の質感の異化に逢着するものではないが,しかしそれが(無意識の受動的な支配を排した)自立的な行為論のレヴェルで語られているという点において,両者の立場は明らかな照応を見せている。このような行為=物質論は,だが,もし絵画の現前(presence)に関するもう一つの思想に裏づけられることがなかったならば,結果として,彼らが否定しようとした“計算された”絵画と同様の静態的なイメージ論の域に回帰して行かざるをえなかったであろう。少くとも最終的にそれを克服するものとはなりえなかったであろう。たしかにマチェールや筆触は,“過去”の行為の証人ではありえても,その事実の客観的な提示だけでは,絵画が見る者にとって“行為として現前する”ことを保証しはしな(3) -180-

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