い。絵画という物質は,どのようにして再び,見る者のうちに,動態的な可能性をもってよみがえるのであろうか。デュビュッフェにとっては,それこそがまさに偶然性(タブローに引き起こされる予期せぬもの)に期待されている効果なのだ。すなわち「それはタブローの中に,画家の手の存在を如実に示してくれるのである。それは客観性が支配することを妨たげ,事物があまりにはっきりした形をとることに逆うのだ。それは描かれた物体とそれを描く画家の間の二つの方向,その堅牢に支配された二つの極の中に,一種の流れをつくり上げるのである。」(13)タブローが画家の手をはなれた時,なおそれは可能性の状態においてある。行為は過去の事実としてではなく,現在性をもった事実として潜在している。われわれはタブローを前にしてその可能性を現実のものとする,デュビュッフェの言葉に従えば,「流れ」を再生させるのである。見ることは描くことである。行為=物質論で言うならば,この等号を逆方向に読み取ることなのである。「タブローは受動的に見られるもの,つまり普段と同じちらりとした眼差しで,瞬時に把握されるものではない。そうではなく,じっくりと消化することのうちに蘇生されるもの,思考によって再生されるもの,あえて言うならば,再び行動するものなのだ。(中略)見る者の中で,ある内部の機構が始動すべきであり,彼は画家がひっかいたところをひっかく。画家と同じところを同じようにこすり,彫り込み,埋め,押し込む。彼は画家によってなされたあらゆる行為が,自らのうちによみがえるのを感じるのである。」(14)見ることは単なる追体験ではなく,むしろ創造行為そのものであるという彼の主張それ自体は,何も新しいものではない。(15)重要なのはそれが絵画における身体性の概念との直接的な関係において語られ,しかもその身体性がきわめて原初的な意味合いをはらんでいるという点であろう。デュビュッフェの物質主義を特徴づけているもう一つの側面は,この一種の原始主義,あるいは反文明主義ともいうべき立場である。よく知られているように,彼は同じ時期に「アール・プリュト」(ArtBrut)の収集と展示を行なっている。「原生芸術」「生の芸術」とも訳されるこれらの作品は,すべて文盲,精神病患者,犯罪者らの“芸術の教養で痛めつけられていない”人達の手になるもので,彼はそこに伝統とも今の流行とも無縁の,自らの衝動のみに根ざした,純粋に自発的な芸術の可能性を見い出そうとしていたのだ。47年から51年にかけて,ルネ・ドルーアン画廊などで開かれた「アール・ブリュト」-181-
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