鹿島美術研究 年報第3号
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コレスボンダンス展には,プルトンやタピエも参画していた。図式的にいえば,その例外者たちの営みに,前者では無意識の世界が,後者では「別のもの」への契機が期待されていたわけであり,デュビュッフェは,結果的にシュルレアリスムとアンフォルメルの注目すべき一つの接点を,もしくは転換点を提供していたことになる。しかし彼自身にとってのアール・プリュトとは,芸術の病理でもなければ逸脱でもなく,健全なる芸術の姿そのものであり,むしろ病んでいるのは「文明的芸術」の方であった。マチェールの絵画の制作と,アール・ブリュトの提唱とが,平行して進行したことは,その意味からも興味深い。もちろん,物質主義を即,原始主義,反文明主義と見なすわけにはいかないが,少くともデュビュッフェにとって,両者は相互的なものであり,不可分の関係にある世界であった。彼のレトリックに従えば,手の偶然やオートマチスムは,画家の身体を,キャンバスの前で瞬時,“教養の痛み”から解放してくれるものであったのである。以上がデュビュッフェの発言を中心にして見た,40年代末の絵画における物質主義の概要である。彼の行為=物質論は,50年代に入ると若干,趣きを変え,一種の照応論へと向かって行く。すなわち,「物質が目に対してとる形や様相と,人間の心に住みつく精神のダンスとの間には,共通したリズム,同一の運動のシステムがありうる」(16)という独自の視点によって絵画がとらえられ,それは「思考の運動学」として「地面と土壌:精神的風景」(SolsetTerrains : Paysages mentaux)などのシリーズに展開されて行くことになる。だが50年代以降の物質主義についての検討は別の機会に譲り,ここではアンフォルメルの先駆者としてのデュビュッフェに論を留める。アンフォルメル運動の中で,何らかの意味でマチェールの画家と見なしうる主だった存在としては,“先駆者たち”の他に,アントニオ・タピエス,アルベルト・ブッリ,ルチオ・フォンタナ,フランコ・アセットらの名が挙げられる。運動の全体からすれば,それはアンフォルメルのー局面にすぎぬものかもしれない。しかも彼らは,タピ工の戦略によって,必ずしも本人の意志とは関係なく,運動の中に位置づけられたのである。行為=物質論をアンフォルメルの本質と見なすのは,可能なる“もう一つ”の文脈であって,全てがそれで規定されるわけではない。また行為の問題については,物質主義とは明らかに対立する「シーニュ」の画家マに述べたように,-182 -(4)

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