鹿島美術研究 年報第3号
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1. シュルレアリスムらわれない自由な表現方式を特徴とする運動が起ったことはよく知られている。アンフォルメル,およびアクション・ペインティングと呼ばれる運動がそれだが,それらの成立については必ずしも明らかになっているとはいえない。いまパリのアンフォルメルにしても,それがドニーズ・ルネ画廊の率る幾何学的抽象絵画に対抗するところから生まれたことは事実だろうが,それでは一体シュルレアリスムとどう関係しているのか,あるいは北欧のコプラ・グループとはまったく関係がないのか,さらにはアメリカの動きとも完全に無関係であったのか,このような問いに対する歴史的な明快な答はなされてはいない。1952年と56年に渡仏してアンフォルメル運動を目のあたりにした富永惣ーはこの動きを「パリの画壇の……複雑多岐な構造の中で,一つの鉱脈として」把えようとしているが,(!)上のような問いにはまったくふれていない。その後この運動をおし進めたタピエらも来日しているが,事情は変ってはいない。当事者であるがゆえに語りたがらないというのは,ある意味では当然かもしれない。その際の座談会においてシュルレアリスムとの関係をたずねられたタビエは「いまのところシュールレアリスムについては,まだあまりしゃべらないほうが慎重であろうと思う」と(2),直接的な関係については発言を控えているのである。本論は,パリにアンフォルメルが生まれるにいたった経過を,第一にシュルレアリスムとの関係,第二にコブラとの関係,第三にアメリカとの関係から概観しなから,その特徴を明らかにすることを目的とする。戦前から戦争直後にかけてパリの画壇を二分した大きな勢力は抽象主義とシュルレアリスムであった。戦後のアンフォルメル運動は幾何学的抽象主義に対抗するところから出発した(3)といわれているが,そうだとしても,それが直ちにシュルレアリスムの側だったというのではない。彼らのグループでシュルレアリスムに深くかかわっていたのはブリアンやミショーぐらいであって,あとの人々はほとんど関係を持たなかったようだ。例えば,アンフォルメル運動を支持し,育てたミシェル・タピエも,シュルレアリスムの歴史には名前が見えない。(4)タピエについて書かれた本によると,彼はトゥールーズ=ロートレックの従兄弟の子供であり,ジャズ・彫刻,絵画,昆虫採集などいろいろなものに興味を示したらしい。(5)やがてパリに出て「街燈(Reverberes)」というダダ的なグループをつくったようだが(1937■40),(6)詳細は分らない。活発に活動しは-187-

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