鹿島美術研究 年報第3号
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3年後の1951年3月に有名な「激情の対決」展カタログで「アンフォルメル(l'Informel)realite)」の中の「脈絡のないものと未完成なもの(l'Incoherentet l'Informe)」であら45年にかけてドゥルアン画廊で開かれたフォートリエの人質展を見て「何か新しいM.T.B.」展カタログの一文では単に従来の美術の美的概念とは異なる「別のもの」じめるのはやっと戦後も1948年になってからのことである。この年5月コレット・アランディ画廊における「H.W. P. S. M. T. B.」展に彫刻を出品し,7月ドゥージル画廊の「白と黒」展にデッサンを出品し,両展カタログにはともに短文をよせ,9月にデュビュッフェの「アール・ブリュト友の会」の設立メンバー(7)となっている。このメンバーにはブルトンも名前をつらねているから,少くともタピエはブルトンとの同席を拒否するというような仲ではなかったようだ。そのことはタピエが「街燈」グループに加わりながらも,その後にそれを引きつぐ形で結成され,やがて共産主義に接近しながら反ブルトン的傾向を強めていく「ペンを持つ手(LaMain a plume)」グループに入っていないことにも関係があるかもしれない。かといってタピエがシュルレアリスムに大きく傾いていたとも見えない。1950年4月ルネ・ドゥルアン画廊で開かれた「マックス・エルンスト」展のカタログに一文を寄せたが,そこではシュルレアリストとしてのエルンストよりも「別の世界への唯一の可能な跳躍台」であるダダの「冒険に身を投じたほとんど唯一人の画家」としてのエルンストを評価している。そしてこの「別の世界」は,1948年4月の「H.W.P.S.にすぎなかったものが,同年7月の「白と黒」展カタログにおいてはそれが「現実(laることを明らかにし,「これらこそまさに現実の唯一の魔術的・心霊的な力,つまり惰力なのだ」と書くにいたっている。(9)という無限の領域」と命名されたこの世界はたしかに「現実」そのものの中に在るという点でシュルレアリスムとは一線を劃していたように思われる。タピエは1944年かものを感じた」とのちに回想したといわれる。(10)この時のカタログに寄せられたアンドレ・マルローの文章の冒頭に「人質は別の世界への鍵を与える」とあるが,(11)タピエの見た「新しいもの」がマルローの「別の世界」と結びついて「別のもの」となり,さらには「アンフォルメル」へと展開したものであろう。フォートリエの人質シリーズはたしかに見る人を直撃する強さをもっているが,それはなによりもマチェールそのものの迫力だったといってよいだろう。しかもそのマチェールの状態は形をなす前の,いやむしろ想像力を刺激する前の未分化の状態であり,加えてそれは人質としてとら-188-

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