われた状態にあったのである。いいかえるとそれは閉ざされた非定形の状態なのであり,これが開放的となり,爆発してはじめて「アンフォルメル」になるのだといえよう。先の座談会のなかでタピエはアンフォルメルというのは「なんのフォルムも色彩もない中性の地帯」であり,そこでは「あらゆるフォルムが可能」であるといっているのは(12)このあたりのことを指しているように思われる。マチェールとそこから刺激されて生ずる想像力の世界という点ではシュルレアリストであるマックス・エルンストともフォートリエははっきり区別される。エルンストの作品における想像力の世界はタピエのいうとおり「底知れぬ彼岸」の世界であるのに対して,フォートリエの人質は正反対の此岸そのものなのである。このようにタピエが戦前のシュルレアリスムに近いところから出発し,やがて非シュルレアリスト的な「別のもの」に達したとすればアンフォルメルを代表する画家ジョルジュ・マチウは幾何学的抽象主義に対する反発から出発し,「抒情的抽象」をへて「アンフォルメル」に達している。様子は見えない。(13)著書『反乱から再生へ』における戦後美術史の叙述のしかたからはシュルレアリスムより抽象主義に近かったように思われる。そしてマチウの場合決定的なものは1947年5月のヴォルス展だった。すっかり感動して,「しみ,流し,投げつけ」といったヴォルスと同じ技術を使って制作したという。(14)これらの作品は同年7月の,幾何学的構式主義的なものが支配的であった「第2回レアリテ・ヌヴェル」展や,さらに遅れて10月の「第14回シュルアンデパンダン」展にも出品し,後者に対して批判家J-Jマルシャンは,若い抽象画家マチウは2点の大作を出品しているが「それは何も表わしていないけれども非常に抒情的(lyrique)で非常に感動的であり,観衆の心をうつにちがいない」と書いた。(15)この言葉が気に入ったのか,彼はその後個展の申し入れを断わり,「もっと一般的な傾向を示すために……もっとも全体的でもっとも絶対的な自由を表わす作品を」(16)集めるような展覧会を考えるようになったのだという。この企画は12月にリュクサンブール画廊の「想像的なもの(L'Imaginaire)」展として実現したが,マチウのいう「抒情的抽象」概念を確立させるまでにはいたらなかった。というのも当初考えられていたタイトル「抒情的抽象をめざして(Versl'Abstraction 1921年ブーローニュ=シュル=メールに生まれ,リル大学法文学部で英語学を学び,1942年ごろから絵を描き始めたマチウが当初シュルレアリスト・グループに加わったLyrique)」は最終的に「想像的なもの」という曖昧なものに変えられたからである。(17)-189-
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