expression de l'individu)のほうに自由があることを主張したにすぎない。(19)それにこれが誰の意見であったのかは分からないが,マチウ自身もカタログの序文はマルシャンに依頼し,その中で「抒情的抽象」を定義してもらおうとした。しかし結果は失敗だった。マルシャンはせいぜいのところ非具象(non-figuratif)的抽象絵画を,古典主義とバロックの対立にならって,構成主義と新造形主義のセザンヌふう抽象主義を前者に,抒情的抽象主義を後者にあてはめ,分類したにとどまった。(18)マチウによれば当時「抒情的」という言葉とともに「心的(psychique)」というのも使われたようだが,結局は幾何学的抽象主義における「造形手段(moyensplastiques)」の優位に対して,それにはよらない主観主義(subjectivisme),あるいは個人の表現(I'対して「想像的なもの」といういい方にはその表現内容あるいは表現世界へ向おうとする傾きがみられたけれども,このような方向はマチウのそれとはかけ離れていたように思われる。マチウは翌1948年にはタピエらと「H.W. P. S. M. T. B.」展や「白と黒」展に,さらに1949年にはドゥルアン画廊のグループ展に参加した後,1950年には同じ画廊で個展を開いた。このころには「抒情的抽象」という言葉よりも「アンフォルメル」のほうを用いるとともに独自の記号論的芸術論を展開させ,それ,つまりアンフォルメルを「手法ではないような手法,あるいは能う限りの意味といったものを持たない手法を用いる」段階としてシュルレアリスムやさらには抒情的抽象までも追い越したところへ位置づけている。(20)このようにマチウは最初からシュルレアリスムの外にいた,より正確にいえばシュルレアリスムの後ろにいたのであり,その後もそれに加わることはなかったのである。マチウの「抒情的抽象」から「アンフォルメル」への展開はいまはおくとして,アンフォメルとシュルレアリスムとの関係ではなお見ておくべき人がいる。それは,アンフォメルと重なる概念のタシスムを支持した評論家シャルル・エスチェンヌである。彼がタシスムを話題にのせたのは少し遅く1954年3月になってからであるが,(21)美術評論はいちはやく戦争直後の1946年から『闘争(Combat)』誌などで始めている。(22)マチウはエスチェンスがタシスム(しみ主義)を定義してからはそのようなものはすでに自分がつかんでいたことだとして心よく思っていなかったらしく,あまりよくは書いていない。多分同じ傾向を支持するがゆえに兄弟喧華といったところなのだろう。エスチェンヌ自身は抽象絵画からシェルレアリスムまで広い作家をとりあげており,彼もまたシュルレアリスムにとくに近かったようにはみえない。-190-
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