の1947年にはパリのドゥジル画廊とドゥ・フランス画廊,翌1948年にはドゥニーズ・2. コブラタピエより1年早い1908年にブルターニュの西の端ブレストに生まれたエスチェンヌはリル大学で歴史と地理学を学び,プレストノリセ(高等中学校)の教師となった。美術への関心は,最初の妻が同地の技術専門リセの教師であったことと関係があるだろう。1940年にはパリの『美術』誌の通信員となり,ブレストのサリュダン画廊で「現代作家」展を企画し,これ以降批評と展覧会企画の活動に入ったようである。終戦後ルネ画廊,ルネドゥルアン画廊といった抽象系の画廊で活発にグループ展の企画を行ったが,マチウにいわせると,エスチェンヌはタピエが「立体派の落伍者」と呼んだものを好んだにすぎないということになる。(23)出品者はアルフ゜,カンディンスキー,レジェ,ミロといった戦前からの抽象作家のほかにアルトゥング,シュネーデル,ポリアコフといった人々も顔を出すが,同時にデロル,ピオベール,レモン,デュトといった無名に終った人々もたしかに多い。そのため例えば1952年バビュローヌ画廊のために企画した「新パリ派」展で彼は出品作家を2つのグループに分けているが,作家名名を見ただけではいまでは両者の区別はほとんど理解できない。(24)しかしながら全体的にみれば,エスチェンヌが少くともタシスムを唱えるまでは一貫して抽象美術を支持したことは間違いないようである。1950年の『抽象美術はアカデミスムか』(25)といった小冊子が書かれたのもこのことを示しているといえよう。このようにタピエ・エスチェンヌの3者ともに経歴や活動をみる限り,彼らが熱心なシュルレアリストであったという証拠は見あたらない。アンフォメルとシュルレアリスムといえばまず問題になるのはオートマチズムというシュルレアリスムの表現法がアンフォメルにどう影靱しているかであろう。かつて滝口修造もある座談会で両者の重要な関係について暗示しているのであるが,(26)少くともシュルレアリスムの系譜上にはすぐに入って来ないのである。アンフォメル形成期に重要な関係をもつものとして見ておかなければならないもうひとつの運動にコブラのそれがある。デンマークのコペンハーゲン,ベルギーのブリュッセル,オランダのアムステルダムにそれぞれ本拠をおく三国の若き前衛芸術家のグループであるコプラは,その結成にあたってフランスのシュルレアリスムと深くかかわりをもっていた。コブラの結成までの経緯は,まずドートルモン(ベルギー)がブリュッセルに革命-191-
元のページ ../index.html#209