的シュルレアリスム・グループをつくったこと(1947年4月)に始まり,これがヨルンらデンマークのヘスト・グループとコンスタンらオランダの実験芸術グループをまきこんだ(1948年11月)ということになる。アンフォルメルと違って,コブラの歴史は最初からシュルレアリスムとかかわっていたのである。ベルギーでは,とりわけフランスと国境を接し,フランス語を話す南部エノ地方を中心にして1930年代よりシュルレアリスムに対する関心は高く,画家ではマグリットやデルヴォーが出ているが,ドートルモンは彼らより一世代あとである。1940年18歳という若さで詩集『古代の永遠』を出版し,マグリットに認められた彼は翌1941年パリに出て,ェリュアールやピカソと交わり,「ペンを持つ手」グループに加わる。(27)この年の始めにはプルトンはアメリカヘのがれているから,両者の接触はなかったと思われる。ドイツ軍占領下もパリにとどまったドートルモンが活発に動き出すのは戦後,とくにブルトンがアメリカより戻ってから後のことである。すでに戦前から共産党との間に溝をつくってきたブルトンと,占領下,ともにレジスタンス運動を行った「ペンを持つ手」グループとの和解はまず不可能であった。何事にも自分が主導権をとらないと気のすまないプルトンに対して,ドートルモンたちは集団活動という協力体制をとっており,この性格の違いも不和の原因となったと思われる。結果は,ブルトンが国際シュルレアリスム展をパリのマーグ画廊で開催した1947年に,ドートルモンたちはブリュッセルとパリで「革命的シュルレアリスム」宣言を発して分れることになった。(28)しかしながらパリの反ブルトン・グループは簡単に崩壊してしまい,前述のようにドートルモンらベルギーのグループがオランダやデンマークの前衛作家とともに翌年コブラ・グループを結成することになったのである。コプラ・グループはしかしながら決して「革命的シュルレアリスム」グループの延長ではない。結成の経緯からは以上のようにシュルレアリスムの延長のように思われるかもしれないが,事実は違う。革命的シュルレアリスムはプルトンのシュルレアリスムに対して,共産党,というよりも弁証法的唯物論を認め,社会的革命性も強調しているが,芸術上の理論あるいは成果ということになると,集団制作のほかにはとくに注目すべきものはない。アンフォルメルに関しても,例えば宣言「原因はわかった」の中で,これまでの詩人は前代未聞のもの,形に表わされていないもの(l'Informulee)を追求するほどの大胆さを持たなかった,(29)というような表現が出てくるだけで,まず-192-
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