鹿島美術研究 年報第3号
212/258

3.アメリカの抽象表現主義いまのところ確言できない。前述のように『コプラ』第1号は1949年3月プリュッセルで発行され,5月にはパリのコレット・アランディ画廊でグループのアペル,コンスタン,コルネイユがグループ展を開いているから,パリの人々が同誌を入手することはありえたとしかいまはいえない。文章で表明されな〈ても,マチウの作風展開を見ることで,それは出来るはずだが,いまはそれも資料がなくて出来ないのは残念である。さて,パリのアンフォルメルに関してもうひとつ見ておかなくてはならないものにアメリカの抽象主義がある。トリープ,ホルティ,マザウエル展である。(31)ポロックはベティ・パーソン画廊との契約を結んだばかりで出品できなかった。(32)しかし,抽象表現主義形成期の彼らはやはりシュルレアリスムのオートマチスムを検討し,いかに深いレベルに達するかに苦心していた(33)というから,ヨーロッパの作家と同じ土俵の上にいたことは間違いない。批評家ドゥガンは「彼らはパリ派だ」と評していることからもそれがわかる。(34)しかし,マチウは彼らに関心を示し,ポロック,デ・クーニング,トービーらについて聞き出したという。作品写真は1947年から48年にかけて『ポシビリテ』誌にのり,これを彼はエスチェンヌ,ジャガー,タピエらに教えたという。(35)このことによって彼らがアメリカの抽象表現主義から何を得たかははっきりしないが,少くともポロックは当時すでにドリッピングを始めており,もしこれをマチウらが知ってアンフォルメルに入ったとすれば,大変面白い現象ということになるだろう。ただ現在のところは確言することはできないのであるが…。いずれにせよ,アメリカの抽象表現主義の作家も1930年代から40年代にかけてプリミティーフやアーケイック志向があったことが指摘されており,(36)ォートマチスムへの関心とそうした流れの中にあるとすれば,根源的な描くという「行為」にたどりつくことはそれほどむずかしいことではあるまい。パリのアンフォルメルとアメリカのアクション・ペインティングとの間の事実関係も非常に面白い問題ではあり,いずれに取りあげたいが,いまのところはここにもオトマチスムがかなりの役割を果しているようだと指摘するにとどめたい。オートマ1947年パリでは二つのアメリカ美術展が開かれた。一つはアランディ画廊におけるG. L. K.モリス展,他はマーグ画廊におけるバジオート,バートン,ブラウン,ゴッ-194-

元のページ  ../index.html#212

このブックを見る