鹿島美術研究 年報第3号
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はくらくA.く巫女デルフィカ〉の右後方に巻物を支える二人のプッティが,修復の結果,想像B. Aの仮説に対し,さらにこれを支持することとして,修復の結果,鮮やかに現わにされた事実のうち,芸術史研究の上でもっとも意味深いことは以下の三点であると私は考えます。(1) 原初の色彩が回復したことによる,ミケランジェロの画家としての能力の再評価。(2) 同じ回復の結果,ミケランジェロの用いた明暗の効果の再認識。(3) ディテールの洗い出しによる,新たな図像学的解決の可能性。以上の3点を踏まえた上で,私が今回の調査(足場台上での)の結果,自らの今後の研究課題とした問題点は,「ミケランジェロにおける,色彩と光のシンボリズム」についてであります。この点についてはボネッティ,ブルーノ両氏と足場台上で討論を交わし,二人の共感を得たのでありますが,残念ながら,この修復作業報告がヴァテイカン側から正式に発表されたのちでなければこれについての論文は公表できないという倫理上の問題があり,今日のところは,ただいくつかの問題点をあげるにとどめたいと思います。しうる以上の強烈な明暗効果をもって描かれていることがわかりました。このため,左側のプットは,非常に暗い闇の中のプロフィルをもち,一方,右手のプットの顔には,ほとんど印象派的と言いうるほど極端な光の束があたっていることが認められます。この不自然な光の班点について,修復士に後補ではないかと質問したところ,これは箕筆であるという見解がもどってきました。これを信ずれば,ミケランジェロは,一方の子供には闇を,他方にはく光〉を強調することに意味を感じていたと考えられます。対壁のくヨエル〉のプッティは,修復の結果をまたねばまだわからないとはいえ,このくデルフィカ〉のごとき光のコントラストによって描かれてはいないと思われます。このことから,ミケランジェロにはこのくデルフィカ〉において斜めから強く当たる<朝〉の光を表現しようとしたのではないか,また,対壁のくヨエル〉は,その老令と沈思の姿勢から見て,<タベ〉を表現しようとしたのではないか,と考えられます。なぜならば,<デルフィカ〉は,巫女のうちでもっとも若く,またもっとも美しく活発に描かれているからです。れたくイニューディ〉のディテールが加わります。〈デルフィカ〉の頭上の二人のイニューディのうち,左側は大きく剥落していますが,右上方のヌードはみごとに洗い出されており,かれの支持する<ドングリ〉の束の色彩が今日ははっきりと認められた-209-

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