んな間違いがおこることはあり得ません。けれどもゴッホの場合,それは間違いではありませんでした。ゴッホの手紙を読むと,彼が何故アルルとその周辺を日本に似ていると考えたか,かなり良く分かります。しかし,日本の版画に対するゴッホの関心という問題についてお話する前に,私たちは旅をさかのぼって北へ,パリヘと戻ることにしたいと思います。今回の展覧会のカタログの22頁には,地図がのっていまして,そこにはゴッホがその生涯に滞在した全ての町や村が記されています。(本文末尾参照)ゴッホは,北斎ほどではありませんが,たびたび住いを変えました。私の読んだ本によると,画狂人北斎は,93回も引越をしたとのことです。しかし,忘れてはならないことは北斎の生涯は,37歳で歿したゴッホの2倍以上もあったということです。北斎は1849年,ゴッホの誕生の4年前に歿しています。この二人の画家には,エキセントリックなふるまいと,非常に旺盛な制作力とが共通しています。もし,北斎の「画狂人」という称号を輸出することをお許しいただけるならば,私は,この称号をフィンセント・ファン・ゴッホにも与えたいと思います。二人とも絵を描くことに或る意味では狂っていたのです。ところで,先にパリヘ戻ることにしたいと申し上げました。このフランスの首都においてゴッホはサミュエル・ビングを知りました。美術商ビングは,のちには「アール・ヌーヴォー」の方に転じるのですが,その頃は日本の版画を専門に扱うことで有名でした。ゴッホが何百枚にも及ぶ日本の版画を見ることができたのは,このビングの店においてでした。その中には北斎のものも多く含まれており,ゴッホは北斎に対する賞讃を深めていったのです。現在,アムステルダムのファン・ゴッホ美術館に所蔵されている,「フィンセント・ファン・ゴッホの日本版画コレクション」には,北斎は一点もありません。ゴッホの日本版画のコレクションのもともとの規模と中身については,正確な情報がないもので,実際に北斎の版画を持っていたかどうかは知り得ません。しかし,彼が北斎の版画を非常に好んだことは確かです。仮にゴッホがゴッホ展の開会式のために東京へ来ていたならば,今太田記念美術館で開かれている北斎の展覧会を見に行こうと,友人たちをさそったことでしょう。現在アムステルダムにある,ゴッホの日本版画コレクションを代表する作者として,広重と国貞の二人があげられます。ご存知のように,ゴッホが日本の版画を模写した油彩画重の有名な版画「亀戸梅屋舗」をゴッホが模写したものです。会場の2階にかけられていますが,きっとお気に召すことと思います。が3点現存しています。そのうちの一点はこの展覧会場で見ることができます。写真②広-14 -
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