ゴッホは青い色調と華やかな色を非常に好んでいましたが,彼はそれを,日本の版画とアルルの実際の光景の中に見出しました。そうあってほしいという願望もい〈らかはあったでしょうが,とにかく両者の間に色彩上の類似性があると感じたゴッホは,南仏にいるということは,自分にとっては同時に日本にいることなのだと思っていました。ゴッホは友人であるエミール・ベルナールにあてた手紙の中で,「空気が澄み切っていて,色彩が鮮やかなので,アルルの郊外の風景はまるで日本のように美しい。」と書いています。先ほどの,坊主としての自画像のことを思い出して下さい。あの自画像においてゴッホは自分を,ほとんど日本の僧侶と同一視しています。興味深いことには,ゴッホは自分自身を,その他の人々とも同一視しようとしました。その他の人々というのは,具体的には,彼に先例を示してくれた人々のことです。こんな風に言うと,いささか驚かれるかもしれませんが,今日,我々は,ゴッホを,美術の分野において,極めて独創的で,極めて個性的な仕事を行なった芸術家として評価しているからです。しかし,ゴッホ自身は,常に他の画家たちの仕事に多〈を負っているということを強調していました。例えば,モンティセリ,ドラクロワ,ミレーといった人々ですが,ゴッホの手紙の中には,その他大勢の画家の名前が繰り返し現われます。また,そういった画家たちの他に,文筆家たちの名もしばしば言及されています。主にオランダ,フランス,イギリスの文筆家たちです。高階教授が,とりわけそれらの文筆家たちの本がゴッホに及ぼした影闊についてあとからお話になることになっています。高階教授の講演によって,ゴッホの知識の範囲がどれほど広いものであったか,より一層明らかになるものと思います。ここで,フランスの画家,ジャン・フランソワ・ミレーが,ゴッホにどれほど決定的な影を与えたかについて述べてみます。芸術家にとって何が大事なことであるかという問題に関して,ゴッホにとっての主要な手本はミレーであったといっても,決して過言ではないと思います。先ほど,もしゴッホが我々と共にこの展覧会の開会式に出席できたとしたならば,彼は,きっと北斎展をも見に行こうと友人たちをさそったに違いない,と申し上げました。しかし,それと共にゴッホは,自分の作品が,何年か前にミレーの展覧会で人々をひきつけたのと同じこの美術館で展示されることを,非常に誇りに思ったでしょう。それは,1982年に国立西洋美術館で開かれた「ミレーの<晩鐘>と19世紀フランス絵画展」のことですが,ゴッホがそのことを知ったならば,必ずや東京を更に自分に近しいものと感じたと思います。ゴッホは22歳の時にはじめて,ミレーの大展覧会を見るという経験をしました。それは16
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