屋の作品が見おろせる様になっています。最初の部屋と最後の部屋との間に4つのセクションがあり,それぞれゴッホの作品の中に見られるイギリスの要素,オランダの要素,フランスの要素,日本の要素として当てられています。この4つのセクションと第5のセクション「総合」のセクションを合わせ見ることによって,ゴッホの,オランダにおける初期からオーヴェールでの最後の日々に至るまでの画歴の全部を眺めることもできます。この講演によって,ここまで,他の人々から学ぶことに熱心であった芸術家としてのゴッホの姿を紹介してきました。日本の「坊主」としての自画像のことやゴッホにとってのミレーの重要性を思い起して下さい。しかし,それとはやや異なることに触れて,この講演を閉じたいと思います。ゴッホは多くの自画像を描きました。画家として初期の時代の自画像はありませんが,パリ時代以降は彼の顔は良く知られています。多くの人々は,それと共にゴッホについて二つのイメージを持っています。自画像によってつくられたものが第1のイメージとすれば,第2のイメージというのは,ゴッホいた手紙を読むことによってつくられるものです。この第2のイメージは,肖像画によってつくられるイメージよりも多様で人によって様々に異なるものです。今日,ゴッホの手紙を読むというのは,その手紙の本来の読み手,その手紙があてられた人間ではありません。しかし,不思議なことに彼の手紙を読む者は,自分がアウトサイダーであるという気がしません。むしろ,程度の差こそあれゴッホの生涯の日々に自分も加わっているのだという気持がごく自然に沸いてくるのです。その結果,我々は彼を自分に近しい者と感じ,ゴッホが背負って生きなければならなかった悲しみを自分の身近に感じるのです。人々は,そのような悲しみをあるいは人生の疑問を,そしてゴッホの死を,自分たち自身の周囲に認め自分も彼と同じだと考えるようになる,あるいは,少なくとも彼の人格の一部は自分たちの内にもあると考えるようになるのです。このような,自己との同一視という過程を通して我々は,彼の自画像によって作られたほとんど彼の手紙の読み手の数と同じほど多くのものがあるわけです。彼の手紙を読むことによって,人々は彼を個人的に親しく知ったように感じるのです。この講演で私が申し上げたい最後のことですが,今回の展覧会に出品されたゴッホの実際の油彩画や素描と出会うことによって,このようにすばらしい手紙の書き手であるゴッホと,皆様方の間には,必ずや新しい対話が生まれることでありましょう。高階教授の講第1のイメージに,第2のイメージを加えるのですが,その第2のイメージというのは,19 -
元のページ ../index.html#33