鹿島美術研究 年報第3号
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オナカオランダに生まれた彼は最初イギリスに長いこと滞在しますが,この時はまだ画家ということは自分では考えておらず,そこで,ランダにいる間に,フランス語を一生懸命勉強して,フランス語もできるようになりました。やがて後半はフランスに出て〈るわけで,パリ時代以降はパリで弟と一緒に住んで当然そこではフランス語を使います。彼の手紙を見ますと,初めはオランダ語で書いていますが時々英語を使います。フランスに行ってからは面白いことにフランス語が殆んどなのです。面白い事にと申しますのは,相手がフランス人なら当然なのですが,弟にあてた手紙で弟とは多分オランダ語で話しをしていたと思いますが或はパリに来てからは,フランス語で話をしていたかも知れませんが,我々の事を考えて見ても兄弟二人とも外国に行っても多分自分の国の言葉で話をするでしょう。手紙を見ますと,フランス語が圧倒的に多いのですが,このように彼は語学に大変興味を持って,英語なり,フランス語を一生懸命勉強して,伝道師になろうとした時は,ラテン語やギリシア語の勉強もして,(ラテン語は難しかった様ですが,)英語,フランス語に関しては,ほぼ支障なく完全に読むことができその語学力を駆使して,イギリス,フランスの小説を次々と読んでおります。イギリスの小説の中では,プロンテの『ジェーン・エア』,あるいはストー夫人の『アンクル・トムの小屋』とか,しかし,彼が一番好んだのはチャールス・ディケンズで19世紀のビクトリア王朝時代のロンドンの杜会を新しく登場してきた大都会の貧しい人々を様々に描き出した彼の作品を非常に多く読んでおります。それから女流作家のジョージ・エリオットの『サイラス・マーナー』『フェリックス・ホルト』『ミドルマーチ』といったように小説。小説家と言うより広い意味で文学者であったトーマス・カーライルの『フランス革命論』とか,ゴッホのこう言った傾向は,ゴッホ自身の好みであると同時に当時のフランスの知識階級ヨーロッパの一般のインテリー達の間の趣味を反映している訳で,カーライルは日本でも明治時代に随分読まれましたが,その中から彼は自分の特に心に訴えるものを繰り返し読んでいるわけです。フランスでは詩人のユゴーに関しては,詩だけではなくて『1793年』とか『レ・ミゼラプル』とか,『ノートルダムのセムシ男』といったような小説類,それからバルザックやフロベール,モーパッサン等の小説を丹念に読んでおります。例えばゾラについてみますと,『ルーゴン・マッカール双書』の主要なものはほとんど目を通しているようで,有名な『ナナ』をはじめとして『愛の1ページ』『パリの腹』『ムーレ司祭のあやまり』『ウージェーヌ・ルーゴン』『ごった煮』『貴女楽苑』『居酒屋』『ジェルミナール』等々,特に1882年に,ゾ-24 を勉強しそれから一旦オランダに帰ってオ

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