生きるための一つの力を与えてくれるものだったのです。<玉葱と本のある静物画>にパイプ煙草とワインの瓶,土瓶みたいなものがありますが,ラスパイユが,フランスで人気を持ったのは,化学療法でなくて,自然のものを食べる自然療法を勧めた人ということで,多分この土瓶にはその薬草が入っているのだと思います。そして同じ時期に描かれた例の耳に包帯をした自画像(<耳を切った自画像>)では,やはりパイプをくゆらしている。彼はここでは自分の生命への意欲を掻きたてようとしているわけなのです。そこで,もう一度『生きる歓び』と『悲しみ』に戻ってみます。示に富んだ作品ということが出来ます。この大判の聖書は,半年程前に世を去った彼の父親が持っていたもので画面ではその父親の死を暗示するかのように,聖書のすぐそばに,火の消えたばかりの蛾燭が置いてある。そしてその暗い色調の聖書と対照的に輝かしい黄色で描かれている本は,ゴッホが愛読していた「黄表紙本」の一つゾラの『生きる歓び』です。つまりこの画面の2冊の書物には,一方で「死」と「生」他方で父親とゴッホ自身という二つの対比が暗示されています。謹厳な牧師であった彼の父親は,ゴッホが芸術家になることに反対でしたが,ゴッホの方はすでに画家となる決心をかためていました。すなわち,この作品は,亡き父への思い出に捧げられた追悼の辞であったと同時,新しい生活に出発しようとするゴッホの決意の表明でもあったといえるのです。開かれた聖書の右頁上部の欄外にISAIEという文字があり,右段の中頃にチャプターと,それからローマ数字で53というのが読みとれます。これは『イザヤ書』の53章の頁だということを,わざわざゴッホは知らせているわけです。そこで,その『イザヤ書』の53章に何が書いているかというと,一番基本的なのは,悲哀,悲しみの人。これは聖書の方でいいますと,キリストの瞑苦ということなんですが,悲哀の人のことが書かれております。『イザヤ書』の53章の第2節,第3節あたりに「彼は辱め,侮られ,悲哀の人となりぬ……」という文章がありまして,人々から辱められて侮られた人の話が出て来ます。ゴッホは丁度この絵を描いていた頃まだフランスヘ行く前ですが家族や父親とはうまくいかず,ハーグにいた頃一緒に住んでいた娼婦との結婚を家中が大反対し,ゴッホは家族みんなから見捨てられたと自分で感じ,聖書の悲しみの世界に自分自身を投影してしまうのです。<開かれた聖書のある静物>の中で,ゾラの『生きる歓び』は非常に黄色い強い調子を示しています。これは大変ゴッホにとっては大事なことです。オランダ時代から,その後もずっと変わることなくゴッホが尊敬し続けてきたドラクロアから彼は色彩理論を学びま1885年の10月に描かれた<開かれた聖書,蛾燭,本のある静物画>は極めて意味深い暗-31 -
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