4.鎌倉時代造像銘記の調査研究(共同研究)の作品を検討すれば了解されるように,意識的にコピーされた場合は別として,画家は手本を守るよう強いられていたとはみえない。手本はかなり柔軟に使われていた(ラザレフ)。そして細部においては画家が図像の展開に積極的な役割を担った場合さえあったと考えられる。あくまで仮説ではあるが「キリストの冥府くだり」を例にとり,その可能性を指摘したい。手本が精緻に準備され強制力をもつのは,自発的なものとしては失われたビザンチンの伝統をロシアにおいて守ろうとした16世紀以降のことであった。しかし西欧の影椰及び,最後にピョートル大帝による上からの西欧化が美術に関しても行なわれることになる。以上のことは我々にとって無縁の問題ではない。というのは,明治10年代にペテルブルクに留学した山下りん(1857-1939)は正しくこのピョートル以後のロシアの宗教画を学んで,わが国に持ち帰ったからである。当時最も影閻力大きかった作品は1858に完成した聖イサク大聖堂の装飾であった。この装飾に参加した画家たちの作品を追って行けば,山下りんの画業とその周辺が具体的に見えてくる。東京芸術大学美術学部教授水野敬三郎この報告は西川新次・副島弘道・山本勉の三氏との共同研究による成果の一部である。昭和58• 59年度の本財団助成金により鎌倉時代の造像銘記を有する作品約90件について調査し,資料を収集したが,ここにはそれらのうち数件について調査報告を行う。1.福島県都々古別神社十一面観音像銘記によれば天福2年(1234)大和長谷寺本尊を写して造立したもの。長谷寺式十一面観音の早い遺例として注目されるが,ことに興味深いのは,銘に「雖非其道」,すなわち専門仏師ではないがこれを造ったと明記されていることで,地方作に限々見ら報告中の鐸木道剛氏39 -
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