鹿島美術研究 年報第4号
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管されている)が,そのうち半数近い20のドラムが切断され一部欠損した状態である。他方,各小円柱の下部をなすドラムは,ひとつの例外を除けば欠損部を示さず完全な状態である。長いドラムから順に扉口の隅切に設置されてゆき,その上方に残された空白部分を充填するために,ある程度短かいドラムあるいは切断されたドラムが用いられたことが細部の観察から窺われる。このような欠損部の存在は,例えば右入口楯の右端が切断されているといった事実を説明するために用いられた,扉口の東から西への移建による幅の減少という仮説では説明され得ず,むしろ各部分の寸法を多少ゆるやかに計測して制作したという近年みとめられている考え方と同調する。このことは,同時に,彫刻の制作を行った工房が大聖堂の建築現場から少し離れた場所にあったことも暗示しているように思われるが,これは推測の域を出ない。これら欠損状態のドラムからいくつかの完全なドラムを復元することも可能であるけれども大半の断片は失われたままである。また,2つのドラムが上下転倒したかたちで設置されていることも,この扉口の特異性のひとつとして指摘されるべきであろう。右入口左隅切の小円柱のひとつは,「十二か月の労働」と「黄道十二宮の象徴」を表しており,左入口と右入口のアーキヴォルトに配されている同一主題が,同一扉口の内部において繰り返されていることが認められる。更に左入口左隅切のドラムのひとつには,「アぎレウスの養育」のー場面と解釈され得る,ケンタウロスの背に乗る裸の少年が彫刻されていることはすでに指摘されているが,全く同一のモチーフが別の様式で右入口の小円柱にも表されている。こうした同一テーマの反復という事実は,「王の扉口」の彫刻群が,厳格にそして明晰に組み立てられた図像的プログラムに従って制作されたという判断にある程度の調整を加えるよう導くものと思われる。「王の扉口」で小円柱の彫刻と最も近い様式を呈示するのは,R.ハマン=マクリーンの考えるように北塔地階の柱頭ではなく,19世紀に取り外されコピーに置き換えられたアーキヴォルト外縁である。また,小円柱そして人像柱の順に設置されたと考えるのが論理的であるが,小円柱のうちで未完成な部分を呈するものがいくつかあることから,人像柱が取り付けられる直前に仕上げが施されたと推定できる。また,この未完成の部分は,人像柱によって隠される箇所に高い頻度で見られるため,人像柱と小円柱が同時に構想されたと考えることも不可能ではない。この扉口の彫刻の制作年代としては,M.オーベールによって提案された1145-1155年が一般に認められてい-97 -

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