鹿島美術研究 年報第4号
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半が北部フランス等ローマ化の遅れた地域で発見されていることも興味を惹く。というのは,12世紀における装飾小円柱の分布状況とかなりの程度で一致するからである。ただ,この起源の問題については,極めて長大な時間と広大な空間を対象とするため,今回の研究においては不充分な成果しかあげられなかったことを告白しなければならない。な図像プログラムとこれらの要素との適合を求めて多くの実験が重ねられ,後のゴシック扉口が準備された時期には,極めて豊かな創造力が発顕する。ここにその成果を部分的に報告した,シャルトル大聖堂「王の扉口」の小円柱に関する研究は,将来行うより広汎なロマネスク・初期ゴシック扉口彫刻の論考の一部をなす予定である。(6) 中世蒔絵史の研究研究者:文化庁文化財保護部文化財調査官鈴木規夫調査研究の目的:蒔絵史上における中世は大きな転換期に当たり,技術の発達,意匠や画面構成の多様化,蒔絵師の家系の成立,蒔絵の普及等が見られた時代であった。これらの諸問題については未だ解明されない部分が多いが,従来よりの研究を踏まえてその実態を探りたい。研究報今回の研究に当っては特に室町蒔絵の動向の解明に焦点を絞り,いくつかの視点を設定してその写真・史料の収集及び調査研究を行った。1.室町前期蒔絵室町前期蒔絵の代表例として以下3件を取り上げ,改めて位置付けを試みた。(1) 桐蒔絵手箱他11合(古神宝類の内)これらの手箱は明徳元年11月の奥書がある「熊野新宮御神宝目録」等により,元徳元年(1384)頃から準備され明徳元年(1390)に調進されたと伝える。ただこの目録が江戸時代の写本であることや,その様式があまりに室町的であることから,その作期を断定できなかった。ところで最近奈良国立博物館によって12合の内の桐唐草蒔絵手箱のX線透視調査が行われ「了性」の隠し銘が確認されたが,この了性についてはこの研究に当たり至徳年間頃に京都の祇園社(八坂神社)の神輿の蒔絵を手懸けた五12世紀中頃,人像柱が扉口装飾を構成する要素のレパートリーに組み込まれ,様々和歌山・熊野速玉大社蔵-100-

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