鹿島美術研究 年報第4号
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要層の拡大,就中地方における漆芸の普及•発達がある。ところが何故か蒔絵の地方(3)梅月蒔絵文台した樹木表現や,大小の切金を岩に散らす技法は特徴がある。ところでこの二合に近似する作例として,住吉蒔絵硯箱(東京国立博物館)があげられる。精緻な技法,同様め切金手法になる岩の形,歪屈する樹木,更に扇形の面的な組み合わせで表される松葉などから同系統の作とみなされる。ただ技巧に走り過ぎて形式化が強く,全体的には閑雅な趣に欠ける。察するところその意匠・技法に保守性が強いとされる五十嵐派の時代の下った作と考えられる。中世は漆芸が飛躍的に発展した時代といえる。それは単に技術面だけではなく,作といえる確固たる例は報告がない。そこには技術の高度性,材料の高価さからくる作品の高級性が障害となった感がする。ただ上手のものは無理としても,比較的簡略な蒔絵のものは地方においても製作可能と考えられる。例えば幸阿弥家六代長清は豊臣秀吉から天正11年(1583)禁裏・院の蒔絵道具製作の朱印を受け,また天下一の称号を授けられながら,小田原の北条氏にも仕え,そこでもうけた一子が栗本幸阿弥と称して北条氏に仕えたという(「幸阿弥家伝書」)などは地方蒔絵の実態の一例を示す。次に地方できと考えられる作例を示す。(1) 蓮唐草蒔絵箱形礼盤蓮唐草蒔絵に銅製銀象嵌という東国にしか例のない桓金具を打っている特異な礼盤である。その作期は蒔絵や格狭間の孔雀文金具の様式,またその大永6年(1526)の修理銘から当初は鶴岡八幡宮の神宮寺別当坊内御影堂に所在したとの推論により,応永年間の作と考える。(2) 桐鳳凰蒔絵糸巻太刀オ存(3口)に天文7年(1538)小田原の北条氏綱が奉納したもので,中身の銘にある綱広は鎌倉住,綱家・康国は小田原住の刀工である。永禄2年(1559)奥書の「小田原衆所領役帳」には綱広と共に櫂左右師(柄巻師ヵ),銀師か,記されており,刀身だけではなく椿も小田原地方で製作された可能性が強い。甲板裏の「信元(花押)」の蒔絵銘は,当時太宰府天満宮留守職を務めていた小鳥居信元であり,かつ花押の形から天文8年(1539)頃の作と考えられるものである。ところでこれに酷似する図様の文台が東京国立博物館にもあるが,これには「信岡(花3.地方蒔絵の胚胎神奈川・神奈川・鶴岡八幡宮蔵福岡・個人蔵-103-

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