押)」の蒔絵銘かあり,これの方は同天満宮五別当家の筆頭で,本来留守職を世製してきた大鳥居家の当主信岡である。ここで注目すべきは,図様的には前者が後者を模したと認められることである。その模作に当ってわざわざ都に注文したとは考えにくく,当時文化の興隆していた山口において,都から下向した蒔絵師に作らせたと見ることができる。近世以前の絵馬のほとんどは白描又は彩絵であって,蒔絵製は上記以外に知られていない。そこにおいて上記絵馬がすべて奥羽地方に伝来することは,やはり地方的所産と考えざるをえない。その意匠・技法はほぼ近似する簡略なものである。また各寄進者の奥羽における動向は詳かでないが,今は所在不明の山形・成島八幡神社の蒔絵絵馬に,「山城国住人木村肥前守国重」とあったと伝え,縁を頼って奥羽に転戦した武将であったようである。またこれらの絵馬は,わずか18年間に製作されたもので,その近似する手法を見ると同エの手になる可能性もあり,かつ中世では特異な蒔絵絵馬を奉納する行為を勘案すれば,各奉納者も同一族であったようである。(4) 繋馬蒔絵絵馬弘治2年小間景国奉納(5) 獅子蒔絵箱永禄7年木村景重奉納(6) 繋馬蒔絵絵馬永禄7年木村景重奉納(7) 繋馬蒔絵絵馬元亀元年木村景重奉納(8) 繋馬蒔絵絵馬元亀2年長谷川秀次奉納II II 山形・薬師寺蔵岩手・中尊寺蔵福島・田村神社蔵福島・田村神杜蔵-104 -
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