関心と,個々の芸術家の生涯や作品の事実をより良く知ろうとする実証的関心に席をり,伝記の刊行・作品目録の編纂や帰属の訂正の努力が,R.の位置を相対化すると共に明確化していく。つも,ドイツくんだりではなくイタリアに生まれ育っていれば大成しただろうに,という`正統”が周縁を見るものだった。ヴァッケンローダーはイタリアとは異質のドイツ的芸術の可能性をD.において主張し,また質実敬虔な人柄を評価した。F.シュレーゲルはD.を含むドイツ古美術の実際的知識に基づき,キリスト教的=民族主義的精神からその再評価を行い,‘正統”に照らしての美的不備を意識しつつも模倣の対象として推貨した。ドイツ美術の代表格となったD.に対する個人崇拝は,ローマ在住のドイツ人美術留学生の間で1815年(ドイツ再出発の年)に初めて祝うデューラー祭となって結晶し,1828年にニュールンベルクをはじめとするいくつかの都市で挙行された死後300年祭により一挙にドイツ全土のものとなった(ニュールンベルクのD.祭がこれほど大がかりとなったのは,全ドイツの美術家の結集を呼びかけたD.協会員の宣伝活動も大きいが,N.市の帰属を巡るバイエルンとプロイセンの競合にも一因がある)。この時の記念講演ではD.の偉大さはなおイタリアの優れた芸術をドイツに導入したことに求められているのは注目されるが,とはいえD.は既に個人としての芸術上の功績や特性を越えて芸術家の連帯の(実際にドレスデンではこの機に芸術協会が結成された),また黄金時代(16世紀前半)のドイツ文化の,あるいはドイツ文化全般のシンボルと化し,自伝の紹介や作品目録の編纂といった実証的な接近が行われる一方,ニュールンベルク産レープクーヘンの包装をはじめとするキッチュ産業やD.イメージの政治的利用への途を開く。ケランジェロが一般的である(フランスでは19世紀までそれが見られる)。R.とD.を特に対置した最初はクノルの「冥界におけるD.とR.の対話」(1738)とされるが,新しく芸術家の類型を作り出すには至っていない。ヴァッケンローダーは既に見たようにイタリア的・ドイツ的という対比を両者に与えているが,それ以上にhimmlischとirdischという枠で把え,更に二人が手を携えるという友情のイメージを作り出した(これは史実とは関係がない)。オーヴァーベックはミケランジェロを加えて,忠実な自然描写1-2. D. ヴァザーリ以来の代表的D観は,彼の版画の高度な技術と構想力を認めつ1-3. R.とD.の類型的対比R.に対比させる芸術的天才としては,ヴァザーリ以来ミ(D.)'激しい想像力(M.),理想美(R.)という三つの芸術類型を呈示する。フライ-118 -
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