年代に興盛し,80年代•90年代にもなおかなり大がかりな作例が散見される。登場の2-1.礼賛図または聖画的表現2-3においても礼賛の念は多少伴うと考えられるか,ベルク=アイゼンベルクは,シラーに代表されるいささかステレオタイプ化した美学的天才類型に沿って両者を対比する。即ち優美と崇高,南方の明る<穏やかな気質に対する北方の鋭厳さ,無意識のうちに容易に美を生み出す天賦のオと意識的・悟性的に努力して目標に近づこうとする才能である。R.的美の規範の普遍性の喪失とD.の文化シンボル化が進む1830年代以降は,類型対比は意味を失っていく。その受容形態としては,様式模倣・モチーフの借用・主題の踏製,更にそれらを通じての芸術的信念の表明が行われたが(フランツ・プフォルについては別個にまとめる予定である),以下ではイメージとしてのR.とD.,即ち作品中に造形化される両者の像を問題とする。美術史の美術化,あるいはメタ美術(Keisch)(ここではやや狭く限定し,芸術一般の寓意や芸術家一般を主人公とするものを除外,歴史上実在した術家の造形化を対象とする)は,16,17世紀に少数例が見られるものの,主題領域として確立したのは19世紀であり,同世紀末には歴史画一般の凋落に伴ってほぼ姿を消した,すぐれた19世紀的な現象と言える。ドイツでは1810年頃に登場,30年代から60原因としては,芸術家の社会的地位が激変し,自己の定義と正当化を過去の偉大な先例の姿に求めたこと,18世紀末以来の芸術家を主人公とする戯曲の上演や芸術家の祝祭の歴史的仮装行列によって,過去の芸術家の現前が美術以外でもなされていたこと,美術関係の知識が増大し,それを楽しむ教養人の群が存在したこと,美術の歴史的把握と体系化が進み,それに応じて作品を展示する美術の殿堂たる美術館の建設が19世紀中に盛んに行われ,その建築装飾が美術史の自己表現,ないしは芸術家によるパトロン=支配者賛美の造形を行う場を提供したことなどが考えられる。ここでは造形そのものが,特に宗教的図像の適用によって芸術家の超人的=神的属性を積極的に指示するものを取り上げる。従っては仮に「アポテオーゼ」という題が輿えられていてもそれに相応しい構成を伴わないものは含まれない。R.・D.崇拝の残る時期の例が中心だが数は少なく,ジャンルとして確立されるには至らなかった。時代が下ってからも一見宗教的崇拝の形を取った作例はあるが,真の崇敬心を伴わぬためむしろカリカチュアとなっている。なおこの項に留まらず,芸術家像に肖像的説得力を与えるためには美術史の知識が前提とされ,作る側も見る側もそれを楽しんだ2.造形表現におけるR.とD.-119-
元のページ ../index.html#137