の門人となり,帰郷して薩摩藩御用絵師として活躍した木村探元は,幅広い画題を多彩な画技を用いて絵画を制作した。今日,探元筆とされる作品は鹿児島に多くあるが,その作風的研究(様式研究)までには至っていない。そこで,鹿児島市立美術館学芸員・山西健夫氏の協力も得て,主として鹿児島県内における探元の作品を見る機会を持ち,探元の様式研究に向った。それらの調査から,尚古集成館蔵「富士山水図」(紙本淡彩79.5 x 158. 3cm)は,探元の代表作の1つであり,探元研究上基準作たり得る非常に重要な作例であることが理解された。この作品は,寛文7年(1667)に描かれた狩野探幽の「富士山図」に近く,探幽風の灌洒な表現を見せるが,同時に雪舟系水墨画の剛直性も合わせ持っている。鹿児島(薩摩)は,室町時代に雪舟の直弟子である秋月等観(生没年不詳,薩摩出身)によって雪舟系水墨画が伝えられた地である。この伝統が探元にも受け継がれているとも考えられるし,このような水墨画の剛直な表現は,「武の国」薩摩人の気質にも合致したものとも思える。以上より,探元の本作品は,薩摩という地域性に根ざした狩野派の作例として独自性を示しているとも解される。尚古集成館には,木村探元の弟子である押川元春(生没年不詳)「富士山水図」も遺されている。木村探元は若い頃より富士山を数多く描き続けるが,晩年になると鹿児島市立美術館蔵「富嶽雲姻図」のような写実性を持ちつつも厳しい気分を画面に村長ぎらせた非常に個性的な作風に変わっていく。しかし,元春のこの作品は,探幽様式を強くとどめたという,前に述べた「富士山水図」に近い雰囲気を持っている。これは,興味深いことである。それに合わせて,これも探元の有力な門人である能勢探龍(1702-1755)の後裔にあたる能勢家より,能勢探龍「富士山水図」が昭和61年12月,尚古集成館に寄贈された。この作品は,元春の作品に比べて,「富嶽雲姻図」の影椰(特に山頂部の写実的な描法)を受けてもいるが,基本的には,探幽様式を継承したものである。ここに,富士山を主題とした絵画に対する探元から門人への展開について大きな意味があることを理解することができたのである。探元の富士山図の作風は,初期の雪舟の模写的な作品から,50歳代以降の尚古集成館蔵「富士山水図」のような雪舟系水墨画の気分を合わせ持った探幽様式を基本としたもの,70歳代以降,晩年のより個性的な鹿児島市立美術館蔵「富嶽雲姻図」のようなものへと展開する。しかし,門人の作品は,探幽様式を基本とした画風を強くとど-123-
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