20面の杉戸絵を発見した。明治17年(1884)本邸完成時に制作されたものの一部と推めている。探幽様式を基本とした富士山図が門人に継承された理由として,当時の薩摩では「都の絵画」として灌洒な探幽風の絵画を欲していたと解釈できるのかも知れない。この都に対する憧憬は,地方における美術の享受のあり方の一端を示しているとも思われる。元春,探龍の富士山水図に関連して,晩年の探元に信頼されていた山路探定(-1763) の「富士山水図」(個人蔵)も今回の調査で見る機会を得た。この作品も,探幽風の表現を基本としたものであることが理解された。この結果,富士山を主題とした尚古集成館の3点の絵画は,木村探元の作風研究,薩摩画壇の様式,美術と地域性の研究に大きな意味を持つことになった。今回,尚古集成館に所蔵される数多くの絵画作品を実見した中で,これらの作品の意義の深さを知ることができたのは大きな収獲であったと思われる。また,田村省三は,磯庭園(島津家の本邸の時期もあった)内,二番蔵より,10枚されるものもその中に含まれるが,水墨の芦雁図,猿猥図(1面95.5X 176.8cm)によって表裏が形成される2枚4面は特に注目される。寸法,材質など,現在も本邸中にはめられている明治17年の杉戸と異なり,絵画も江戸時代中期の狩野派系絵師の手によるものと推定される。ここで思い出されるものは,玉味克夫「鹿児島城の沿革ー関係史料の紹介ー」(鹿児島県埋蔵文化財発掘調査報告書26昭和58年)という論文中の記事である。この中で,加治木新納家文書として「御対面所襖杉戸絵目録」という冊子について紹介があり,鹿児島城には絵画作品が存在していたことが確認される。更に,本丸間取図の説明として,「御対面所御床其外ノ間二御襖等ノ絵ハ探元,養伯等ノ画」と幕末の成尾常矩という人物が記した文献も合わせて紹介されている。以上のことから,今回発見された杉戸絵は,鹿児島城にあったものとする可能性も出てきたのである。特に,芦雁図,猿候図は,木村探元の様式に近い,雪舟系水墨画と思わせる剛直さを持った狩野派の絵画とも考えられる。このことは,成尾常矩の記述と合わせて,探元が鹿児島城内で襖絵等を描いたことの実証例となることを示唆していよう。島津氏の居城であった鹿児島城の杉戸が,明治時代,島津家の本邸でもあった磯庭園から発見されても何ら不思議なことではない。ただし,「御対面所襖杉戸絵目録」の中に,芦雁図,猿候図の記述が見られるかどうかは,目下,調査研究中である。これも,今回の調査における大-124 -
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