鹿島美術研究 年報第4号
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ざいひしゅう忠久は島津家の祖,鎌倉時代の人で,元和8年時の当主は島津家久である。更に,薩摩藩の古文書・古記録を集めた「薩藩旧記雑録」などから,江戸初期に島津家が張行した犬追物の記録を拾い上げてみると,慶長11年,12年,元和7年,寛永20年,21年……に記事があり,元和8年以前も桃山時代に引続いて張行されていたことが窺える。むしろ,元和8年に犬追物を張行した記事が見当たらず,元和8年再興説は不可解である。この様なことは,島津家の犬追物資料が整理されていないために起ったといえるのではないであろうか。以上の歴史的考察は,風俗画としての犬追物図の研究に大きな意味を持つのではないかとも思われる(犬追物の項は松尾千歳担当)。以上,今回の調査において,尚古集成館蔵の絵画作品の大部分を見ることができた。木村探元を中心とした江戸中期の絵画の研究が主たるものとなったが,幕末の薩摩藩御用絵師,柳田龍雪(1833-1882)など注目すべき絵師の作品が多数発見できたことも申し添えておきたい。なお,今回の調査に基づく研究報告として(永田雄次部は),昭和61年11月,九州藝術学会(於,鹿児島市立美術館)で「木村探元研究序説」と題する口頭発表を行った。これは,「デアルテ」第3号(昭和62年)に論文として掲載された。さらに,昭和62年5月,美術史学会全国大会(於,九州大学)で「木村探元とその様式」と題して口頭発表を行った。松尾千歳は,犬追物資料の中で,桃山時代の馬術書『在轡集』の資料紹介を,「尚古集成館紀要」第1号(昭和62年)の中で行った。以上中間報告として現在までの研究経過について報告する。⑫ 冨田渓仙の研究研究者:福岡大学人文学部教授古川智次調査研究の目的:近代日本画史上の異色の存在とみなされる冨田渓仙(明治12年ー昭和11年)については,鑑賞画での盛行にもかかわらず,その画業と作品に関する基礎的調査研究は思いのほか進展していないのが実情である。この研究においては,広く渓仙に関する資料の発掘に力をそそぎ,その上に立って実証的研究を行おうとするものであるが,特に渓仙が世に出る前の,いわゆる模索時代(明治35年ごろから大正元年まで)に研究の重点をおきたい。この時代は,渓仙の骨格が形成された重要な時期であると同時に,-126-

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