周知のとおり日本画界全体か,伝統と新たな創造との間で様々に揺れ動いた時代でもあった。実のところその様相の解明は必ずしも十分とはいえない。従って,この研究の目的は主として渓仙の模索時代の解明にあるが,併せて当時の日本画界,特に渓仙が身を置いた京都画壇の動向の一端の解明をも意図するものである。研究報告:研究の目的の一つは,冨田渓仙に関する資料を可能なかぎり収集することにあったか,これについては大体において予期した成果を得ることができたと思われる。目下,その資料の整理と検討の段階にあり,ここでは,本研究での重点課題とした渓仙の模索時代(明治35年ー大正元年)の解明について,今回の調査で得た新知見を加えて,その概要を述べるに留めたい。渓仙の模索時代の画稿類や写生帳,及び雑記帳などの基礎資料がまとまって残っていたのは幸いである。画稿類や写生帳などは,当時の渓仙の作画の実態を明らかにする資料であることは言うまでもないが,特に興味深いのは約80冊ほどの雑記帳である。この雑記帳は,渓仙が日常の筆記に用いたメモ帳といってよく,そのためか誤字や脱字,当て字と少なくなく,なかには年月日が不明な箇所もあり,これを判読するのは容易ではないが,そこには折々の日誌や所感,簡単な写生,俳句,金銭に関するメモ,住所録,画会の控え,本の書名などが脈絡なく雑多に記されており,これらの内容を丹念に検討することによって,当時の渓仙の思考や行動の様子をかなり具体的に明らかにすることができる。その結果として,従来の渓仙年譜の模索時代に関する部分は大幅な訂正と補足が必要となるが,これについては後日を期したい。渓仙は,博多時代に狩野派を学び,明治29年ごろ画家を志して京都に出,四条派の都路華香の内弟子となった。その後,時代の動向に対して明確な認識をもち,四条派にこだわらず新機軸の画風を志向しはじめる。それは,雑記帳などからみて遅くとも明治35年の初めごろからのようである。「如何ナル画風ニテ新機軸ヲ出スヤノ判断ハ至難デアル」との自覚のもとに,渓仙は10年後に大成を期しているが,実際,10年後に「鵜舟」が文展に初入選しこの作品が渓仙の出世作となっているので,渓仙の目標は一応達成されたとみられる。渓仙の模索時代は,およそ次の三つの時期に区分できるだろう。は翌39年のこととなっている)まで。第1期は,渓仙が師の都路華香宅を出て独立する明治38年5月ごろ(従来の年譜で-127 -
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