治39年以降にみられる)。この時期の前半には,「蒙古襲来」(明治35年)や「神功皇后」(同36年)などの作品があり,明らかに歴史画志向がみられる(いずれも今日その下絵しか現存せず)。前者は,奇抜な構図と大胆なデフォルメによる,歴史画としては破格の表現で,東大の美学の教授であった大塚保治に「結構の上からは余程の傑作」だと注目されたが,温健な写生風絵画を好んだ京都画壇では,その「乱暴な調子」は不評をかった。後者は,その反省に立ち,絵画上の工夫よりも歴史的考証を重視した作品で,そのために有職故実に詳しい富岡鉄斎を訪ねて時代考証について教えを乞うている。(明治35年12月9日)従来の年譜では,この鉄斎訪問の時期を明治42年のこととしているが,この背景には,渓仙の南画志向と南画家鉄斎とを関連づける意図があるのは明らかである。鉄斎を訪問した明治35年ごろの渓仙は,大雅に対しても「余リ質賛ヲ巧シウスルヲ好マズ」といっており,南画そのものをその後,以前から西洋絵画にも関心を示していた渓仙は,絵しか現存せず)のような洋風的な作品も描いているが,これは当時の竹内栖鳳などの洋風表現の影靱とみることもできるのだろう。この時期で興味深いのは,歴史画志向の過程で学者としての鉄斎にふれたことも大きな刺激となったようであるが,渓仙は画家として大成するには,教養や思想の修得も大切であることを痛感し,それを実行に移していることである。例えば,明治36年5月に創建されたばかりの京都ハリストス正教会に通ったり,日露戦争中の帰省時には,博多の禅寺などを熱心に訪ねたりしているが,それは単なる宗教的な関心からだけではなかったようである。祖父とゆかりのあった仙厘への関心もこのころから芽ばえている。これらのことは異色の画家といわれる渓仙を理解するうえで看過できない要点であろう。この時期以降は,師の都路華香の依頼で渓仙のパトロンを引き受けた,京都の呉服商・内貴清兵衛との交友が頻繁となり,以後の渓仙の思考や行動はおよそこの人物との密接な関係において推移したといっても過言ではない。内貴清兵衛は,渓仙のほかにも土田麦倦や速水御舟,更に北大路魯山人などとも交友があったことはよく知られているが,渓仙とほぼ同世代(内貴が一歳上)で,しかも「性格の近似がある」といわれたこの二人の交友は,単なる画家とパトロンの関係第2期は,独立後から台湾,南清行(明治42年)の前まで。したところがある(渓仙の南画への関心は明に狐」(明治37年?下-128 -
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