以上のものがあったようである。その様相は内貴の回想談(渓仙の死後に出されたもの)に詳しいが,渓仙が内貴について述べたものは意外に少ないようで,当時の雑記帳の中にいくらか散見されるに過ぎない。その中で内貴について,「気焔の熱火燃るか如し。……彼は二の口には必ず実利的論評を下して絵画を見る。然れ共進歩的直入的の観念を以てり……」と評しているが,渓仙と内貴とはお互いに啓発しあうところがあったのはいろいろな事跡からみて確かであろう。この時期は,内貴の助言もあって洋風志向から伝統絵画に目を転じ,奈良,京都の神社仏閣や博物館を訪ね,古画や仏画の勉強に励んでいる。以前はむしろ排斥していた南画にも関心を向けはじめ,明治39年頃には大雅や蕪村に共感を示していることは注目される。しかしその影牌が作品上に現れのは次の第3期以降においてであり,この時期は,「伎芸天」(明治39年)や「詞利帝母」(同41年)などの近代的な仏画の志向が見られる。またこの時期の渓仙は,内貴とともにキリスト教や老荘思想について,その道の専門家から講義を受けたり,禅への関心も一層深めており画家としての修業とともに,人格面の修養にも真剣にとりくんでいることは留意されねばならないだろう。内貴の援助で実現した,明治42年3月から8月にかけての台湾,南清行(台湾4ヵ月,南清1ヵ月)は,それまでの旅(明治35年の約3ヵ月にわたる第一次紀州行,同画志向があり,渓仙はこの旅によって「活眼が開く」ことを期待している。予定の2倍の4ヵ月の長滞在となった台湾では,南清行の旅費調達のための画会を開いているが,この時の「蕪村風」の作品の評判はあまり芳しくなかったようで,台湾ではむしろ画家としてよりも俳人として歓迎されているのは興味深い(渓仙の俳句歴はかなり古く,明治35年の雑記帳には俳句が見られる)。この旅の成果は,三冊の墨画の画帖として結実するが,そのうち「台清漫画紀行」は翌年刊行され,この画帖が当時新傾向の俳句を提唱し,全国を行脚中の河東碧悟桐に激賞されたことによって,渓仙の前途が開けることになる。碧悟桐は,当時俳画の第一人者であった中村不折の『不折俳画』を酷評する中で,「あまり名を聞かぬ」渓仙の,「ただ黒々と塗りつけた如き疎放な乱雑な一見散漫な図面」の『台清漫画紀行』をとりあげ,「活き活きした一種の妙味を感ずる」として,「形第3期は,台湾,南清行から出世作「鵜舟」(大正元年)が制作されるまで。40年の約1ヵ月にわたる第二次紀州行がある)とは異なって,その背景には明確な南-129-
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