式破壊の一種の力」を積極的に評価したのである。これが機縁となって渓仙と碧悟桐,及びその一派の俳人たちとの交友がはじまるのであるが,今回の研究ではこのへんの調査に力を入れ,碧悟桐や当時渓仙と親交のあった岐阜の塩屋宇平らとの交友に関する資料を収集することができた。これについての考察も後日を期したい。ところで渓仙は,文展に明治40年の第一回展以来落選をつづけている。それらの落選作がどのようなものであったのかは現在確認できないが,いくつかの証言によれば,仏画あるいは歴史画に類するものであったようである。そうだとすれば,絵画としては第二義的な制作である「台清漫画紀行」のような画帖では,自在にその個性を発揮しながら,文展出品画などの本画では依然として観念的な画題による作画を続けていたことになり,ここに旧態を脱しきれない渓仙の苦悩を見ることができる。その意味で,旅の写生から生まれた『台清漫画紀行』の漫画風,あるいは俳画風の軽妙な表現が,俳人たちの支持を得たことは,新機軸をめざす渓仙に明確な自覚を与えることになったのは確かであろう。翌明治44年には,前後6ヵ月にわたる東北,北海道,北陸行を行い(従来の年譜では明治43年のこととなっている),この時の写生をもとにして南画風の墨画の画帖「山海経」を制作,この作品は翌45年の京都の新古美術展に出品されて4等貨となったが,渓仙はこのような傾向の作画に確かな手応を感じとったに違いなく(この「山海経」については,碧悟桐のやや批判的な書簡があるが,これに関しても後日を期したい),この年の秋の文展出品作に,南清行に取材した「鵜舟」が構想されることになる。今日残る「鵜舟」の試作と完成作を比べると,試作の方は旧来の南画系列につらなるところがあるが,完成作には近代的な造形感覚が働いており,その間にはかなり造形上の飛躍がある。それについては内貴清兵衛の助言もあったようであるが,ともあれ渓仙はこの作品によって新機軸を開くことができたといえるだろう。その後の展開については,大正2年の「沈鼈容膝」(墨画,対幅),同3年の「宇治川三巻」(墨画淡彩,4巻)を経て,同5年の沖縄行に取材した「沖縄三題」(南画風著色画,4幅対)へと発展していくのであるが,「台清漫画紀行」から「沖縄三題」に至る作品には,俳画風墨画から南画風墨画,南画風淡彩画,更に南画風著色画へという初期様式の展開が明らかに見られる。これらの作品は,旧来の観念的な南画の流れから出たものではなく,いずれも旅の写生の中から生まれたものであった。その意味-130 -
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