鹿島美術研究 年報第4号
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の動物意匠の幾つかは,動物意匠の起源の考察にとって重要である。また同様のものが数枚知られている帯飾板やその他の小型飾金具も,資料の積み重ねにより,詳細な様式変化の研究や,製作過程の復元などが可能になると思われる。今回の調査旅行により,そのような作業の一応の基礎となる資料を収集できたといえるであろう。(14) 鎌倉時代の浄土宗教団における造像に関する研究研究者:東京国立文化財研究所美術部主任研究官三宅久雄調査研究の目的:我国の仏教が宗派仏教として発展したということは,彫刻史を考えるうえで看過し難い。鎌倉時代は仏教の大衆化,宗派の多様化が進んだ時代であり,仏教信仰が質的に大いに変化した。このことは彫刻史にも相応に影縛を与え,当代に多種多様な彫刻作品が造られ,仏師の系統が多岐に分かれたことなどもこれと無関係ではない。浄土宗美術は,平安時代から浄土教美術の伝統を承けながら成立・展開していったが,この研究では成立期の初期浄土宗教団における造像の実態を把握し,造形表現上の特質,教団と仏師の関わりなどについて考察し,複雑な様相を呈する鎌倉彫刻史の一端を明らかにしたい。研究報鎌倉彫刻史を考える場合,その冒頭に南都東大寺,興福寺の復興があったことは極めて重要であり,これを契機として運慶,快慶ら慶派仏師が台頭し,当代の彫刻界に重きをなすにいたった。その具体的な契機は,東大寺復興大勧進に抜擢された重源が慶派仏師を重用したことにあり,特に重源と快慶は,快慶が熱心な浄土信仰者であったこと,重源の異国(宋風)趣味にある程度理解を示したことなどから,密接な関わりがあったことは周知のとおりである。快慶と重源の結び付きが最初に窺われるのは,建久三年(1192)の醍醐寺三宝院弥勒菩薩像の製作においてである。重源は自ら南無阿弥陀仏と称した念仏聖で同行衆にも阿弥陀仏号を付与することをはじめたが,快慶は三宝院像造立銘にいち早く「アン阿弥陀仏」と称し,以後,法橋になるまでの無位時代には一貫してこの阿弥陀仏号を用いている。重源は東大寺復興に当り各地に別所と呼ばれる根拠地を建てたが,快慶はこのうち播磨と伊賀の別所の造像にもあたっている。これら重源関係の造像においで快慶を含む重源配下の念仏同行衆が背景にあったことは,浄土宗教団における造像を考える場合に看過できない。重源と法然との関-135-

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