鹿島美術研究 年報第4号
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3.建久五年に阿弥陀立像を造った遣迎院は寺伝によれば藤原道家が西山派の祖証空2.通憲一族に着目すると,建久前半の製作かとみられる近時発見の八葉蓮華寺阿弥4.建久八年の円福院釈迦如来像の墨書銘中の人物を空阿弥陀仏とすれば,通憲の子,5.建仁元年(1201)作の耕三寺阿弥陀如来像はもと伊豆山常行堂安置の像で,法然6.建仁三年の醍醐寺三宝院不動明王像にみえる結縁者は,作者不明の興善寺阿弥陀7.建仁三年の年紀を有する文殊院文殊菩薩像は空阿弥陀仏明遍の甥慧敏の発願であ8.建保六年(1218)嵯峨清涼寺釈迦如来像の台座を修理している。これは同年11月9.承久四年(1210),建保四年(1216)の青蓮院における造像,青蓮院と関係ある建係については明確ではなく,同じ浄土信仰といっても重源は真言法然は天台を基盤とし宗教活動の内容も異にするが,快慶の側から言えば,重源との関係は東大寺復興という枠内においては顕著であるが,生涯を通じてみると,彼の造像活動の背景としていわゆる初期浄土宗教団との関係に着目すべきように考えられる。まず東大寺・別所関係以外の快慶の造像のうち,法然及びその周辺との関係の可能性あるものをみていくと,1.建久三年(1192)醍醐寺三宝院弥勒菩薩像は,快慶が阿弥陀仏号を用いた初例であること,醍醐寺における造像であることから,重源との関係に注意が惹かれるが,願主勝賢は藤原通憲の子で,この通憲一族は法然周辺に深い関わりがあった。陀仏如来像は慧敏と明遍が関わっている。この両人は後記7にも触れる。を開山として創建したという。勝賢の兄である明遍,あるいは法然伝記中に散見する空阿弥陀仏のいずれかに当たる可能性が強く,いずれにせよ法然及び浄土宗との関係深い。の弟子源延の発願になると思われる。如来像,来迎寺善導大師像にみえる人物とかなり共通しており,造像の背景を同じくするかにみられる。興善寺像は像内に源空や証空の消息を納めていたもので浄土宗教団による造像であることが確かであり,来迎寺像も後述するように,従来指摘される重源との関係よりもむしろ法然ー派との関係があったとみるべきであろう。り,像内は明遍の写経を納めていた。また本像の結縁者は三宝院不動明王像と共通するものが多く,前記6の事情をも併せ考えることができる。の大火による損傷で,この際の清涼寺復興は一説に明恵上人の功績と伝えられるが,法然門下の念仏房の働きに負うところが大であった。-136-

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