鹿島美術研究 年報第4号
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暦元年(1211)の東寿院阿弥陀如来像はいずれも青蓮院を介して法然及びその周辺とのつながりを想定できる。以上,快慶自身の事績に限って検討してきたか,更に快慶一派と浄土宗教団との関係ということになると,先述のとおり浄土宗教団の造像であることが確実な興善寺阿弥陀如来像は,南都の専修念仏の中心人物と目される正行房の発願と考えられ,快慶無位時代の作風を製った13世紀初めの像である。また玉桂寺阿弥陀如来像は法然上人の随一の高弟源智が師の一周忌を期して建暦二年(1212)に造立したもので,快慶自身これに結縁しており,作者には快慶にごく近い仏師を想定すべき安阿弥様の優品であり,こうした浄土宗教団にとって記念的な造像が快慶一派に依頼されたということは注目に値する。両像制作はいずれも快慶在世時のことであり,ひいては快慶自身の造像活動の背景を考察するうえで念頭においておくべきであり,重要な意味をもつものと言える。先に触れた来迎寺善導大師像は,醍醐寺三宝院不動明王像などと結縁者が共通するところから直ちに重源との関係を考えるより,13世紀初期という時期において善導像といえばまず法然との関係に思い及ぶべきであろう。来迎寺善導像は,また,上述の興善寺阿弥陀如来像とも結縁者が共通し,しかもその像内に納められていた行房宛消息によると,正行房は当時南都において善導像を造立しつつあったようで,来迎寺像がこの善導像に当たる可能性が大いにある。後世の伝えではあるが源智が来迎寺善導像を拝し,しばらく留まって念仏修行したということも,あながち無視できず,本像制作の背景には重源を中心とする浄土教徒というよりも,法然門下の浄土宗教団を考えるべきであろう。作者は作風からみで快慶とするには難があるが,彼周辺の奈良仏師と思われる。本像の最大の造形的特色はその姿にある。善導像は鎌倉期以降浄土宗寺院において法然像と併せて数多く造られたが,ほとんどが合掌する立像又は跛坐像の形に表されるのに対し,本像は片膝を立てて坐しており善導像として極めて異例の作品といえる。その図像的典拠は明らかではないが,制作の背景がある程度知られるところからも,初期浄土宗教団造像史における貴重な一例といえる。浄土宗における造像では,本尊としての来迎阿弥陀如来像を取り上げねばならない。立像形式の阿弥陀三尊来迎図は浄土宗において盛んに描きはじめられたようであるが,彫像では建久五年(1194)の浄土寺阿弥陀三尊像が早い例である。浄土寺像は重源が宋画にもとづいで快慶に造らせたことかはっきりしており,建仁二年(1202)の新大137

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