仏寺も当初は同様の三尊を安置していた。しかしこのような三尊形式は,以後,余り造られることはなかった。鎌倉期以降,一般的な三尊形式として採用されたのは,通行の来迎印を結ぶ中尊に腰をかがめて蓮台をささげる観音,同様に合掌する勢至を配した形で,これは独尊の来迎阿弥陀立像とともに重源の宋風とは直接に結びつかないものである。彫像におけるこの形式の三蒻像は,承久三年(1221)頃とみられる快慶作の光台院像が早い例で,当時,この種三尊像がいくつか知られているがいずれも安阿弥様を示すことからみて,快慶あたりがこれをはじめ,一般に普及していったように考えられる。独尊像を含めてその背景には,来迎図の場合と同様に浄土宗教団を想定することができる。初期浄土宗教団の造像におけるいくつかの事例を検討してきたが,まとめてみると以下のようなことが指摘できる。重源と法然との交流関係の存否については,従来,意見相分かれるところであるが,造像の背景を検討すると少なくとも彼等が率いた集団は戟然とは区別し難く,天台,とを問わず大勢として念仏信仰の浸透とともに法然に心傾けたものが多かったという事実を物語っている。仏師快慶も単に浄土教徒として重源との結び付きを重視するよりも,彼の生涯を見渡せば浄土宗教団のなかにおいてとらえた方がよいであろう。重源はかなり異国趣味が強く,快慶にもその影靱があったことは否定できないが,安阿弥様の阿弥陀如来立像は藤原和様を基盤に解りやすく美しい形を完成したもので,これにより一般に広く好まれた。こうした点に浄土宗側の選択があったし,また安阿弥様がかくも普及したのは‘聖的同法集団の連合体”として広範に浸透していった浄土宗に負うところが大であった。浄土宗は大衆布教という性格もあって,その美術作品にも様々の工夫を行い,新しい迎接曼茶羅,二河白道図,旧仏教から`新像を図す”として非難された摂取不捨曼茶羅などが考察された。彫像では,後に広まらなかったが来迎寺善導像などは初期における試みの例といえ,来迎阿弥陀如来像では新形式の立像三尊を生み出し普及することとなった。その際も重源などのような宋風の目新しさを追うのではなく,前代からの来迎三尊形式をもとにしてより解りやすく実感のある表現に変え,一般に受容されることに成功している。浄土宗教団には仏師,絵師や番匠などがいたことが伝えられ,しかも単なる専属の技術者ではなく宗教者としての姿が窺われる。彼等にとって信者としての宗教活動と-138
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