鹿島美術研究 年報第4号
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0三好義継像天正元年(1573)没年紀第1類を通覧すると,おおむね同一の様式を示しているものの,最初の2点と後のこれらの紙形を仔細に検討すると,その作風は大きく三種に分類され,それぞれに制作年代を示す年紀や署名が記されていた。以下時代順に第1類,第2類,第3類とする。つ。ある。これらのうち第3類は慶長19年(1614)に没した久翌ではあり得ず,源左衛門を名乗った光則の手になると推測される。ここでは残る第1類と第2類の紙形について考察したい。1.第1類紙形の作風と像主0天竺兵部大夫像天正3年(1575)没年紀像主はいずれも和泉国に料所を持つ人物とその関係者であり,堺との距離的な近さを思わせる。作風は筆勢が無く毛描きが荒く目を茶色に塗るなど共通性が認められる。従ってこの2点は同一の画家の手になり,署名をした玄二の作とすることができる。この玄二は年紀の近さから,永禄12年(1569)光茂から家督の譲状を受けた人物と考えられる。0木津屋道久の妻像元亀3年(1572)没年紀0富島永秀像天正2年(1574)年紀両者はいずれも堺の古記録に登場する町衆である。この2点は署名や花押は見られないものの,上記の2点と作風が近似し,同じ第1類に含まれると推定できる。0足利義輝像玄二の筆になる模本である。年紀は「永禄十五年五月」と読めるが,義輝三回忌に当る永禄十年五月が正しいと思われる。こうした誤りはこの紙形が模本であり,原本は永禄10年の制作であることを暗示する。この年は光茂が光元とともに健在であり,門人の玄二が将軍の影像を描く可能性は薄いといえよう。2点では若干差のあることに気づく。例えば前二者には署名,花押があるのに後者に第1類元亀から天正初期までの年紀をもち,その内の2枚は「玄二」の署名をも第2類署名がなく,ただ一点記された年紀は慶長2年(1597)である。第3類元和以降の年紀をもち,内一枚は「源左衛門」の署名のある久翌の遺影で-165 -

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