鹿島美術研究 年報第4号
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0紅屋宗陽像はない。前者は均整がとれ安定感があるのに後者は頭と胴の比率や下半身の衣の処理などに矛盾があり安定しない。更に前者は修正に胡粉を用い,後者は朱を用いる。こうした差異のある理由として次のようなことが考えられる。すなわち前の2点は玄二が責任をもってすべて一人で仕上げたものであり,署名と花押が付された。それに対し後の2点は玄二の指導の下に描かれたもので,面貌部は玄二自身,胴体部は他の弟子によって描かれ,最後に玄二が朱を用いて形を整えたのではないか。このような制作過程の差は像主の身分や土佐家とのかかわりの深さに何等かの関係があるものと思われる。玄二の作風は「義継像」「天竺像」により良く表れていると考えられる。左右対象に近い安定した像容ながら,立体感に乏しく既製の型を写した感を免れない。加えて面貌の特徴のいくつかは光茂筆紙形にすでにあったものであった。その紙形は裏打ち紙に記された筆跡から玄二の手で整理・保存が計られたことが推察される。次に第2類を見る。0泉州殿像慶長2年(1597)年紀0今井宗久像この2点は作風が特に近似する。宗久の没年は「泉州殿像」の年紀に近く,制作時期も近いことが推察される。0茜屋宗佐の妻像0天王寺屋宗閑あるいは紅屋たしゅく像紙面に名前が2つ記されているので像主名を決定することは難しい。「これか似申候」という文字は数枚の習作から選択したあとを物語る。前項の「宗閑・たしゅく像」の裏に描かれたもので,胴は透き写しにしたものである。なお像主の伝歴は不明であるが,このグループに属する紙形が他にも数点存在する。ちが写実的に詳しく描き込まれるのにひきかえ,胴体部は形式化が顕著である。描線には肥痩があり手早く描かれた感があり,透き写しや顔の貼り替えなど量産的な手法も数多く見られる。『土佐文書』中の書簡から当時の土佐家の当主は久翌であることが明確で,これらは久翌グループと名付けられる。第2類の作風をまとめると,体型は頭が大きく,丸味を帯びた幅広の胴である。目-166 -

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