対し,後者は像主の個人的特徴を表現しようとする。両グループの本画は,紙形で見られた相違点を同様に示していたのである。むすび玄二はその肖像画遺品から見る限り,古い絵や光茂の様式を忠実に守った絵師であった。その像主を見ると,絵所預り時代の支持層を引き継いだと思える人物がいる方,新しい需要層を開拓していた。禁裏の仕事までは継承し得なかった彼は,堺の町衆という新しい支持層を描くことによって土佐家の画業を維持したのである。そして久翌の時代になると,量産ともいえる紙形の活用により,大量の肖像を次々こなしていった。土佐家が堺において一種の好感ないし権威をもって迎えられたことは,豪商,堺奉行といったその像主から窺うことができる。今回の調査から判明したことをまとめると,まず玄二というかつて実態の定かでなかった画家の作風が明らかになった。久翌についても既に知られている源氏絵とはジャンルの異なる画跡を見出した。その作風を比較すると玄ニグループには紙形,すなわち型の踏製と依存が見られ,久翌グループは紙形の有効な利用による肖像の量産か`見られた。この二つの作風は天正前期に交替した。従来,玄二と久翌は同一人という考え方がなされてきたが,この明らかな作風の変化により,新たにその背景を見直す必要が出てきたといえよう。両者が別人であるとするなら『土佐文書』が土佐家に伝わった経緯から見て両者に血縁関係のあった可能性は高い。またあくまで同一人物とすると,その大幅な作風の転換についての原因解明がまたれる。今後同時代の文献や資料の蒐集による広範な検討が必要となろう。近世初期,狩野派のみならず土佐派も時代の要請に応じて,その作画法や支持層を変化させていた。そして古典的権威のみでない実力をなお保持し,活動していたことが明らかになったことは,今回の調査で得られた貴重な成果であった。-168-
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