鹿島美術研究 年報第4号
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(2'/J サロン絵画とパリの日本人画家たち研究者:早稲田大学文学部講師丹尾安典調査研究の目的:明治から大正にかけて数多くの日本人画家たちがフランスに渡った。彼らがまずパリで見たものはルーヴルであり,リュクサンブールであり,そしてサロンであった。五姓田芳松,山本芳翠,黒田清輝,久米桂一郎,岡田三郎助,和田英作,中村不折,鹿子木孟郎等の画家たちは例外なくサロンに通い,またそこに入選することを目標としていたし,彼らの就いた教師はこの官展で名をなした画家であった。にもかかわらずサロン絵画と日本人留学生たちとの影粋関係に対する検討はいまだ不十分なものといわねばならない。明治後期の代表的な美術雑誌『美術新報』ひとつとっても明らかなとおり,当時にはサロンの重要な画家たちの紹介は実にしきりであった。このことは明治期の洋画家たちの‘西洋画”のイメージの形成に大きく作用していよう。しかし従来はかかる点は無視されがちであり,ともすれば西洋19世紀後半絵画を印象派中心にすえた史観に立ってわが国洋画史を考えるきらいがあった。当研究はまず印象派=善玉/官展派=悪玉の図式をとりはらった上で洋画史を組立てる一歩となることを目的とする。研究報告:の日本人の画家たちもパリに学んだ。早くは明治6年に川村清雄が米国より渡仏しカバネルの弟子オラス・ド・カリアスに就き,明治11年イギリスよりフランスに移った百武兼行はレオン・ボナに学び,同年日本からパリに着いた山本芳翠はジャン=レオン・ジュロームの弟子となり,明治13年に留学した五姓田芳松は百武と同じくボナに入門し,そして,わが国洋画界の革新者といわれる黒田清輝と久米桂一郎は明治19年にラファエル・コランに師事した。以上にあげた画家たちは,明治10年代から20年代にかけて帰国した。しかし,それでもなお,パリ画壇のつまびらかな状況が,留学体験のない多くの画家たちに,なまなましい現実感をもって伝えられるまでにはいたらなかった。恐らく,わが国洋画人が本場の油彩画の力量をまざまざと見せつけられ,その格差に衝撃を受け,洋画の認識をあらたにし,彼我の相違を真剣に考慮しはじめ,かつ,しきりに体系的な西洋美術紹介を試みるようになったのは,明治33年すなわち1900年19世紀の西洋美術界の中心はいうまでもなくフランスであり,当然明治期の数多く-171-

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