鹿島美術研究 年報第4号
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やにパリ万国博覧会以降のことといってよい。この博覧会前後の時期に,日本の洋画界の主要な人物はほとんど皆パリを訪れている。すなわち,黒田清輝,久米桂一郎,岡田三郎助,和田英作,小山正太郎,浅井忠,丸山晩霞,鹿子木孟郎,中村不折,三宅克己,満谷国四郎等の洋画家,更には日本画の竹内栖鳳までも洋行するのである。むろん本邦においても,明治美術会などで泰西名画と称するものの紹介がなかった訳ではないけれども,わが国の画壇の中枢の多くが本場において質量ともに充実せる実作を目にした体験はまことに大きく,それまでの`脂色の油絵”が古い洋画で,`紫がかった油絵”が新しい洋画,というような漠然とした認識を一歩踏み越えて,一層広い視野のもとに西洋画が理解されるようになったのである。当時の洋画家の受けた衡撃は,黒田清輝のような再渡航者よりも,本邦洋画界の指導的立場にありながら,この機にはじめて渡仏した者の方が大きかった。その驚きや落胆の程は,例えば,パリ万国博の際,列国の油彩画の並ぶ中におかれた日本画の出品を見て述べた浅井忠の感想ー「日本の油画は遺憾ながら顔色なし」(『明星』明治33に語って,日本では和画・洋画,旧派・新派の区別があるけれども万国博会場の中では皆同じようなものに見えると言っており,かような注目も,これまで余り意識的には気づかれなかった重要な認識と言いえよう。また小山正太郎も渡欧を機に,洋画に関する認識を改めている。小山はエ部美術学校でフォンタネージに習っており,このイタリア人教師は,コロー,ミレー等の感化を受けているし,小山の絵もこれら風景画や農民画の大家に間接ながら影響を受けて成ったものであることは,ある程度予測される。小山と共に川上冬崖の聴香読画館からエ部美術学校に入った松岡寿は,フォンタネージが日本に滞在した2年ばかりの間に「ミレーや,コローなどの高尚な雅趣を解していた」(『松岡寿先生』昭和16年)というが,これは小山にあっても同じであったろうし,恐らくこの二大家は尊敬すべき画家としてまず指を折るべき存在であったと思われる。明治33年に「風景画家コロー」を含む徳富薦花の『自然と人生』が上梓されて以来,殊にコローの名は世間に広まっていったし,ミレーも画集刊行の珍しい明治30年代半ばに『ミレー名画全集』と『ミレー画譜』の2冊が出版されていた。しかし,ミレー,コローの画名が一般にも高くなってきた頃に帰国した小山のこの両画家に対する評価は,かつてとは違って,年9月)の一言によ〈表れているだろう。更に浅井は『時事新報』の特派員土屋元作_ 172 -

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