鹿島美術研究 年報第4号
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19世紀仏図画家中最偉大なるものとし,此二人を頼山陽に比するならば,ミレー,コ随分と低下していたようであった。石井柏亭によると,帰朝講話のおり「氏(小山)はダヴイッドとアングルとを以てローの如きは其角のやうなものである」と語ったそうである(「小山先生の事」・『小山正太郎先生』所収昭和16年)。小山が滞仏中に万博会場や美術館を巡って如実に感じたところは,アカデミックな伝統の持つ確固たる底力であったろう。殊に雄々しき戦争画を好んだ小山が新古典派の力強い魅力に共鳴し「マネー,ピュヴィス・ド・シャーヴァンヌ,及びクロード・モネー等の芸術を認めることをしなかった」のは良く分かる。こうした態度は今日一般の通念からすれば旧弊な見方とされるかもしれないが,印象派系の画家の評価は高くなりつつあり,ピュヴィスも大家として認められていたとはいえ,ほかとは一応趣きの異なった絵に共鳴できなかったとしても取り立てて奇妙ではないし,小山のような人は当時のフランスにも多数いたに違いなかった。明治35年に『美術新報』が創刊されると,小山は「欧州芸術家列伝」を連載した。ここにとりあげた画家は,レオン・ボナ,ウィリアム・ブグロー,レオン・ジュローム,ジャン=ポール・ローランス,フェルナンド・コルモン,ジャン=ジャック・エネル,バンジャマン・コンスタン,ジュール・ブルトン等であった。このような画家を取りあげるに際して,パリ万国博での体験が大きく作用していたであろうことは,例えばジェロームの解説中に「1900年万国博覧会の美術参考館にも陳列させられたり」と記したり,ローランスについて「一昨年の巴里万国博覧会にも氏は審査官に挙げられたり」と言い,バンジャマン・コンスタンにつき「一昨年の巴里万国博覧会には全て十面を出陳せるが,婦人の等身肖像等には形状色彩共に妙なるもの多かりし」などとと語っていることから推察することができる。『美術新報』は広く美術愛好者・画学生などに読まれた。したがって彼らの‘美術常識”の中には,以上のようなサロンを根城に活躍した画家たちにまつわる情報が,絶えず流れていったことになる。その功罪については余り言及されることもなかった,というより,この現象を無視することによって,むしろ`罪”の方を結果的に強調するきらいがあった。しかし,例えばブグローにつき「氏は仏国現代美術界の泰斗なり……氏の作品の精巧無比なる世界定論あり」といった紹介は間違ってはいなかったし,この画家がサロン絵画の通俗性の代表者とばかり見られていた時期ならともかく,1984年から1985年にかけてフランス,カナダ,アメリカ合衆国でその大規模な回顧展が開-173

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