かれ,再評価の気運が高まっている今日では_むろん再評価自体を疑問視する向きがあることを考慮してもなお_小山のこうした画家たちに関する情報提供については,あらたな価値づけが必要とされるべきであろうと思われる。西洋画が体系的に紹介されはじめた明治30年代半ば,まずもって紹介されたのは,今日一般には無名のサロン画家,あるいはその系譜上に位置づけられる画家であった。これは本邦近代洋画史を考える上で,特に強調されてもよい事実である。明治43年に『白樺』が創刊され,セザンヌ,ゴーギャン,ゴッホ等の前衛絵画が紹介されるようになるが,少なくともそれまでは以上の如き画家たちが泰西美術の代表者であった。『美術新報』第5巻20号(明治40年)の付録はマウフェの〈羊の群》である。ゴッホに〈マウフェの思い出》という有名な絵があるが,明治40年には,このマウフェの方がずっとゴッホより重視されていたのであり,更に,ゴッホが一時期夢中になっていたジュール・ブルトンは''ひまわりの画家”よりもはるかに名高かったのである。望二獄野人なる筆名の主が『美術新報』に明治40年2月から3月にかけて連載した「仏国最近の諸画派」にはモネもルノワールもセザンヌも挙げられているが,サロン系の画家に比べれば,問題にならぬほどの紹介でしかない。また明治43年に大日本文明協会が発行した訳書『仏国人之仏国』の「画エ」の章を見ても,そこに名を連ねられたほとんどは,小山が紹介したような画家たちであったし,彼らの絵が諸雑誌のロ絵や挿絵にも用いられていたのであった。東京勧業博覧会(明治40年)の際に小林千古が出品した〈誘惑》は,目かくしをしたうら若き娘とその手を引く老人,娘をとめようとする天人,というような設定だが,これなどはいかにもサロン画をわが国に移し替えたような絵である。サロン画の影特はもっと著名な作品にもうかがわれ得るのであって,例えば,青木繁は何かとラファェロ前派と関連づけられるけれども,その《大穴牟知命》などは,筆者にはどこかサロン画を匂わせるように感ぜられるのである。明治後期のわが国洋画界に最も大きな影響を及ぼしたのは,コラン,ローランスに限定されない「サロン絵画」すなわちポンピエリズムとか,ブルジョワ・レアリズムとか呼ばれているところの潮流ではなかったかと思われる。今や欧米では諸美術雑誌に,サロン絵画やアカデミズムにまつわる研究の成果が次々と発表されてきている。本邦近代洋画史も,こうした動向を良く咀哨しながら,あらたな体系を組み立てねばならぬ時期に差し掛かっているのではかいか。-174-
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