と6世紀半ば以降ではやや異なるようで,前者が大きな胸当の輪郭が表われ,比較的年(547)の河北・趙胡仁墓出土の武士桶等が,比較的古い例とみられ,以後この形式•北師堂山北洞・中洞中心柱神王像(東魏~北斉)筒憧甲は,胸と背に別々に甲片をあて,それを肩上で釦聯し,腰帯で締める形式で,北朝では,北魏・正光元年(520)の映西・部真墓や正光5年(524)の河北・韓賄妻高氏墓の武士桶の例が,また,南朝では,劉宋・孝建2年(455)の湖北・武漢周家大湾墓207号墓の武士桶か‘,各々古い例である。この形式は,開皇2年(582)の映西・李和墓等,隋代まで断続的に製作されるが,6世紀の半ば以降,次に述べる明光甲が流行すると,その作例は大きく減ってくる。明光甲は,胸と背に大型の円護と呼ばれる金属板製の防具をあて,腰帯で締める形式で,北魏・孝昌元年(525)の河南・元煕墓や同建義元年(528)の河南・元部墓か古い例で,6世紀半ば以降大流行するようである。しかし,その形式は,6世紀前半胴福甲に近い形式を示すのに対し,後者は両肩から腕を覆う披膊が発達し,胸当の輪郭が表われなくなり,上半身には胸と背中の左右に長円形の窓(円護)があくように皮製かと見られる甲が重ねられる形式に変化している。後者の形式は,東魏・武定5が初唐まで続いでゆくことからすれば,6世紀の半ば頃に後者の形式によって,明光甲の形式が完成したとみてよいであろう。次に,仏教美術に関しては,石窟を中心に重要作例を探索した。しかし,隋以前においては,神将像を造る窟自体が少なく,資料が十分でないため,断片的な認識にしか至っていない。資料の一層の拡充と,地域性を配慮した体系的理解へ向けての分析が今後の課題と言えるが,現状までの理解を以下に記す。仏教美術に表われる鎧については,中原の葬礼美術の作例と同様のものと,異なったものの大きく二様がある。まず,中原の葬礼美術に対応する作例を挙げると,げ両福甲)・麦積山第121窟前壁右側神将像(北魏末)・龍門蓮華洞南壁釈迦寵像(北魏末)・敦煙第285窟南壁五百盗賊成仏因縁図(西魏,大統4• 5年,538• 539題記)(明光甲)・個人蔵碑像(東魏,武定元年・543銘)-176-
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