•北牌堂山中洞門二天像(北斉)•四川・成都万仏寺出土石造神将像(南梁~陳か)これらのうち,特に万仏寺出土像は,高い襟甲をつけ,頸に領巾を巻き,大袖•長2.唐式甲制の成立と展開・麦積山第5窟窟外神将像(隋〜初唐)等が挙げられる。6世紀前半の作例に補福甲が多く,6世紀半ば以後の作例に明光甲の作例が増える傾向があるのは,葬礼美術の場合と軌を一にしている。次に,中原の葬礼美術と異なる形式を示す作例としては,まず,西域風を示すとみられるものとして,・柄霊寺第169窟北壁3号(西秦〜北魏)・雲岡第9洞門ロニ天像(北魏)・敦燈第254• 257 • 260窟神将像(北魏)・敦燈第285窟西壁四天王像(西魏,大統4• 5年,538• 539題記)・敦燒第428窟西壁金剛宝座塔図(北周)・アメリカ・フリア美術館蔵石造棺台(北斉)が挙げられる。これらのうちには,上下ワンピースの鎧をつけるものと,胴鎧の他,胸や腰回りに別の鎧を当てるものの概ね二類型が認められるが,共に装飾的な部分が少なく,実用的で簡明な形に特徴がある。次に,以上の西域風とは異なった形式を示すものとしては,・天竜山石窟旧在石造神将像(北斉〜隋)等が挙げられる。袴をつける形や下腹前にパルメット飾を垂らす形に,法隆寺金堂四天王像,玉虫厨子扉二天像,東京芸術大学保管天王像,当麻寺四天王像等,日本の飛鳥・白鳳時代の作例との形式的な繋りが窺われ,日本との関係を考える上で重要である。しかし,万仏寺像をはじめとして,これらの作例は類品が少なく,形式的にもやや孤立しており,現状では詳細な分析は困難である。今後の課題としたい。神将形像の鎧の形式について,隋以前と唐との間には大きな開きがある。その相違を簡単に言うならば,隋以前の鎧が,総じて比較的大ぶりで数少ない防具によって体を覆っていたのに対し,唐の鎧は,身体の部分ごとに鎧が細分化していった点にある同南壁五百盗賊成仏因縁図-177-
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