鹿島美術研究 年報第4号
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(4) 肩口や腹前等に獅噛が表される。とえよう。今,具体的にその特徴を挙げれば,次のようになる。(1) 胸甲と腹甲が明確に分離する。(2) 襟甲の丈が短くなる。(3) 肩甲が小さくなる。(5) 股間に垂れる前楯が作られる。これら5つの特徴は,必ずしも唐の鎧の全てに表れるものではないが,唐式甲制の成立を考える上での一つのメルクマールとしては,有効と思われる。さて,この5つの形式的特徴を具える最も古い基準作例は,永徽4年(653)の映西・西安大慈恩寺大雁塔の大唐聖教序碑及び大唐聖教序記碑の二天像である。これとよく似た形式を示す作例としては,竜朔元年(663)の同州経教序碑基部十二神将像がある。また,大雁塔には,門楯や門桓に別の系統の神将像が見られる。これらの神将の多くは,先の形式とは異なり,前楯や獅噛を作らず,全体によりすっきりとした形をすもので,永徽〜顕慶(650■660)頃の龍門敬善寺洞の二天像も,この系統に属するものとみられる。さて,以上の仏教造像に見られる唐式甲制の成立過程は,映西省の葬礼美術により劇的に表される。すなわち,貞観16年(642)の独孤開遠墓出土の武士桶が6世紀半ば以来の伝統的な明光甲の形式を示しているのに対し,麟徳元年(664)の鄭仁泰墓出土の武士桶や総章元年(668)の李爽墓出土の武士桶は明らかな唐風を示しており,しかも,前者はそのスマートな形式に大雁塔門楯像,門桓像との繋がりがうかがわれ,後者は小さな前楯の形に大雁塔聖教序碑,序記碑像の影靱が見られるのである。このように,唐式甲制の成立については,7世紀半ば前後の映西省の作例にその変化が顕著に表れてくるようである。(注)。四但し,これに先行する貞観16年(642)題記の敦煙第220窟の神将像が,襟甲が高く,前楯を作らないものの唐式の甲制を示している点は,注目される。この敦煙と映西省の関係については今後の検討にまちたい。さて,大雁塔に集約された感のある7世紀半ばの二つの新形式は,その後670年代に至り,上元2年(675)完成の龍門奉先寺洞二天像において,装飾的な形で集大成されたと見られる。宋・張證の『遊城南注』により永隆2年(681)の建立とされる映西・香積寺の埠塔中の毘沙門天像(『支那仏教史蹟』I-53)も,奉先寺洞と極めてよく似た-178 -

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